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「天皇中心の国」をどう教えるか(3) 天皇以前「縄文・弥生」
今振り返るといくつかの授業をつないで考え方に一貫性を持たせようとしていたことがわかります。そのなかに、「天皇中心の国」を教えるという中心は同じなのですが、「いわゆる皇国史観」とは異なる考え方がありました。それぞれの意味を「いわゆる皇国史... -
「天皇中心の国」をどう教えるか(2)「はじめの一歩」
歴史の授業づくりを進めながら「日本は天皇の国なんだ」と自覚できるようになったのは島小学校で実践する直前くらいでした。遅すぎてごめんなさい。具体的には「古代の国づくり」をめぐる教材研究がきっかけです。また、その前に「近代日本の国づくり」の... -
「天皇中心の国」をどう教えるか(1)「大化の改新」
敗戦によっていわゆる「皇国史観」は否定されました。昭和21年の「新日本建設に関する詔書」はこう書いています。 「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(... -
「皇国史観」と「日本が好きになる!歴史授業」15(授業づくりのなかで11 ここでいったんジ・ENDにします)
ぼんやりしたテーマで書き始めて、あっちこっちしてきてしまいましたが、ようやく自分が考えていたこと&考えていることが少しずつですが見えてきたような気がします。この後は各論になると思いますので、大きな風呂敷を広げたまま来てしまったこの連載を... -
「皇国史観」と「日本が好きになる!歴史授業」14 (授業づくりのなかで10 その後のいくつか)
武力において圧倒的だったにもかかわらず、源頼朝が天皇から征夷大将軍に任命されて幕府を開く道を選んだことを知ると、それまでの議論は置いて子供たちはなぜかとても喜びます。多くの子供たちは喧嘩が強いやつがイチバン!みたいな思想を好みません。ま... -
「皇国史観」と「日本が好きになる!歴史授業」13 (授業づくりのなかで 9 頼朝の授業まで)
乙巳の変で蘇我宗本家は倒れました。実際に蘇我氏に皇位簒奪(易姓革命)の意思があったかどうかは確証はありませんが、授業は日本書紀の記述に従って教材化しました。中大兄皇子と中臣鎌足らによるクーデターが成功して「天皇中心の国」という聖徳太子の... -
「皇国史観」と「日本が好きになる!歴史授業」12(授業づくりのなかで 8 大化の改新の授業・排除の思想と共存の思想)
戦前の教科書の乙巳の変の記述はこんな感じです。明治44年(1911年)版「尋常小学校日本歴史」です。余談ですがまだこの時代は「日本歴史」ですね。 (注)明治33年制定の小学校令は、当初教科目名を日本歴史としていた。 しかし、大正9年からの国定教... -
「皇国史観」と「日本が好きになる!歴史授業」11(授業づくりのなかで 7)
「文科省がそんな立派な「目標」を書いているのにそれをスルーさせているのはなぜですか?」 という質問をいただきました。素晴らしいご質問です!ズバリ言うとお役人たちは「国を愛する心情」や日本人としての誇りを育てることに賛成していないからだと思... -
「皇国史観」と「日本が好きになる!歴史授業」10(授業づくりのなかで 6)
「日本が好きになる!歴史全授業」は文科省学習指導要領に準拠してつくることを基本としてきました。現役の小学校教員だったからです。何よりもまず自分の仕事をより楽しく実りあるものにするためにつくってきました。公務員ですから教育基本法以下の法令... -
「皇国史観」と「日本が好きになる!歴史授業」9(授業づくりのなかで 5)
無計画に書き始めたものが長くなっている。歩きながら考えるタイプなのでやむをえない。「皇国史観」についてはやっぱり考えておかなくてはいけません。でも簡単ではない。なのでこのまま進みます。 聖徳太子の授業を3つつくって試し授業もやって子供たち...