お話:大東亜戦争(太平洋戦争)2
■負け始めた日本
1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦で、日本は航空母艦4隻を失い、8月にはガダルカナル島がアメリカの攻撃を受けました。
これが、最初に日本がアメリカに負けた海戦でした。
戦争のくわしい内容は省略します。日本軍は占領した島々(アッツ島、マリアナ諸島など)を少しずつ失っていき、新聞には玉砕(全員戦死)という文字がおどるようになっていきます。
国の力があっとうてきに違う日本とアメリカが、何年も戦い続けることはできません。
資源や生産力のちがいが大きいからです。
負け始めた日本は、再び太平洋の島々から追い出されていきました。
しかし、日本はそれから三年もの間、けんめいに抵抗を続けました。
■東京大空襲と原子爆弾
1945年(昭和20年)三月、アメリカのB29という爆撃機が、たくさん東京の空に押し寄せてきました。東京大空襲です。東京が火の海になり、何万人もの一般市民が殺されました。
翌4月~6月、沖縄で死闘が戦われ、沖縄も占領されました。
日本は、中立条約を結んでいたソ連にたのんで和平をさぐりだします。
けれども、ソ連が協力するはずがありません。アメリカも、日本が全面的に負けを認めない限り、攻撃をやめる気はありませんでした。
7月26日、日本の降伏を命令する「ポツダム宣言」が出されます。
アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の3人が決めたことでした。
日本はこれをすぐには受け入れられませんでした。
二千年続いた日本国の伝統である天皇の制度が守れないかもしれないという心配があったからです。
天皇を失えば、日本は国としてのまとまりも失い、アメリカの一部にされてしまうかも知れません。
また、戦い続けようとする陸軍が反乱を起こすかもしれないという心配もありました。
8月6日、広島に原子爆弾が落とされました。広島は一瞬のうちに都市がまるごと消えてしまいました。
人類が生み出した最も恐ろしい兵器を、アメリカは日本で実験したのでした。
この爆弾で二十万人が殺されました。
8月8日、日ソ中立条約の約束を破って、ソ連軍が満州に進入してきました。
ソ連軍は「日露戦争の復讐」といいながら、満州に住む多くの一般の日本人を殺しました。
8月9日、こんどは長崎に、二発目の原子爆弾が落とされました。
長崎の町も一瞬で火の海になりました。またも何万人の日本人が殺されました。
国際法で決められていた「戦争のルール」では、一般の市民を殺したり、捕虜を虐待することは禁じられていました。
東京大空襲や原子爆弾は、このルールに違反した作戦でした。
戦場の混乱の中で現場の兵士がルール違反をすることは、どのような戦争でも起きます。
日本にも連合国にも、そうしたルール違反はありました。
しかし、東京大空襲や原子爆弾のように、はじめから一般市民を大量に殺すことを目的にした、ルール違反の作戦は例のないことでした。
■日本の敗戦が決まった
8月14日、御前会議で、ポツダム宣言を受け入れ降伏することが決められました。
政府と軍のリーダーたちだけでは決められず、最後は天皇の言葉で決またのです。
昭和天皇は、鈴木貫太郎首相に求められ、立憲君主としてポツダム宣言受諾の決断されました。
「このうえ戦争を続けては、国土はまったくの焼け野原となる。国民にこれ以上の苦しみをなめさせてはならない」
この昭和天皇の言葉で、会議に参加したリーダーたちもようやく敗戦を決めることができたのでした。
1945年(昭和20年)8月15日。
昭和天皇の声が初めてラジオから流されました。
終戦の詔書の玉音放送です。
こうして、1937年(昭和12年)から8年間続いた中国での戦争と、1941年(昭和16年)から3年半続いたアメリカを中心とする連合国との戦争が終わったのです。
■この戦争で亡くなった人々
富永謙吾「太平洋戦争決算報告書」によれば、この戦争で亡くなった日本人は次の通りでした。
満州(30万人)、中国本土(47万人)、インドシナ半島(20万人)、インドネシア(10万人)、パプアニューギニア(25万人)、中部太平洋諸島(25万人)、フィリピン(52万人)、沖縄(19万人)
その他、原爆や空襲で亡くなった方もふくめれば、全体で約260万人の日本人が亡くなったとされています。
また、第二次世界大戦全体の死者を、主な国別に書くと次の通りです。
ソ連(612万人)ドイツ(325万人)、中国(150万人)、アメリカ(55万人 )
■大東亜戦争を戦った日本人の子孫として、この戦争を考える
長々と書きましたが、支那事変(日中戦争)から大東亜戦争(太平洋戦争)までの8年間の戦争の時代は、まさに、みなさんの祖父母、曾祖父母の方々が、苦しみにたえながら生きぬいた時代でした。
このつらくきびしい時代、日本は気がつけば国がほろびる寸前まで行ってしまいました。
そういう意味で、日本の政治が大きく失敗した時代だったと言っていいでしょう。
また、その失敗に昭和日本のリーダー達は大きな責任があるといえます。
また、いまの平和で豊かな日本から、悲惨な結果に終わった戦争をふりかえると、超大国アメリカを相手にして戦うなんて、どしてそんなバカなことをしたのか、頭がおかしかったのではないか、などという感想を持つ人もいるかもしれません。
けれども、それは、昭和の初めの日本のリーダーたちが、当時のきびしい国際関係や不景気などの中で、真剣になやみ苦しみながら歩んだ道なのです。
この日本人の苦しみには、「アジアの中で日本だけが、西洋人に支配されず、西洋列強と対等な実力を持つ国になってしまった」という運命が大きく関係していました。
そして、国民の多くは、それを祖国の運命として受け入れ、兵士も一般国民も、女性も子供も、いっしょうけんめい国のために戦ってきたのです。
■第二次世界大戦と大東亜戦争の意味を考える
ドイツ(とイタリア)がヨーロッパで始めた戦争と、日本がアジアで始めた戦争が、日独伊三国同盟とアメリカの参加によって、世界戦争になりました。
これを第二次世界大戦とよんでいます。
しかし、ドイツの戦争と日本の戦争は、まったく意味の異なった戦争でした。
ドイツと連合国との戦いは西洋人どうしの勢力争いでしたが、日本と連合国との戦いは「西洋対アジアの全面対決」という意味があったからです。
たくさんの犠牲者を出しながら、日本がもがき苦しんだこの戦争が終わると、日本に追い出されていた西洋諸国はまたアジアの植民地にもどってきました。
イギリスはインドやビルマやシンガポールに、フランスはベトナムに、オランダはインドネシアにもどってきました。
日本が負けたからには、にくらしい日本軍によって取り上げられていた植民地を、もう一度支配できると考えたからです。
しかし、アジア人はもう昔のアジア人ではありませんでした。
強かった日本から学んで、東南アジアの人々は祖国を独立させる戦いを始めたのです。
そして、インドネシア・インド・ビルマ・ベトナムなど、東南アジアの人々は祖国の独立を達成したのです。
■東南アジアの指導者たちの言葉
「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して体をこわしたが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの国々が、西洋と対等につきあえるのは、いったい誰のおかげであるか。それは、身を殺して行動したお母さんがあったためである。十二月八日(真珠湾攻撃)は、アジア人はアジア人の力で国を持てと考えた日本が、重大な決意をされた日です。われわれは、この日を忘れてはいけない」(タイの元首相、ククリックド・プラモード)
「インドはもうすぐ独立する。その独立のきっかけを与えたのは日本である。インドの独立は、日本の戦争(大東亜共栄圏という理想)のおかげで三十年は早くなった。これはインドだけではない。インドネシア・ベトナムをはじめとする東南アジア諸民族すべてにいえることだ。」(インドの法学博士、グラバイ・デサイ)
「われわれアジア・アフリカの有色人種は、ヨーロッパに対して何度も独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年も失敗が続いた。それなのに、日本軍が、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスをわれわれの目の前で、徹底的に打ちのめしてくれた。われわれは、初めて弱い白人を見て、自信を持ち、アジア人全部の独立は近いと知った。一度持った自信は、決してくずれない。日本が戦争に負けたとき、われわれは、今度こそ自力で独立を勝ち取ることを決意し、オランダ軍をインドネシアから追い出すことができたのである」
(インドネシアの元情報大臣、ブン・トモ)
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