伊藤博文と大日本帝国憲法
◆伊藤博文らの努力によって、日本は憲法と国会を持ち、アジア最初の立憲国家となったことを教える。本授業は横浜の安達弘先生の授業の追試です。
1 足りないものが二つ
岩倉使節団がアメリカに行って不平等条約を改正したいと言ったとき、
アメリカの代表はこういいました。
「○○と○○がないような遅れた国とは対等につきあうわけにはいかない」
日本がまだ持っていないと言われた2つとは、いったい何と何でしょうか?
◆意見を出させる。
◆「今日の学習の主役はこの人です」と、伊藤の肖像をはってから、プリント「伊藤博文と明治憲法」を読み正解を知る。→タイトルを書く。プリントと同じ。
伊藤博文と大日本帝国憲法
伊藤博文は長州藩(今の山口県)の出身です。伊藤博文はもともとは名前を俊介と言い、武士ではなく農民の生まれでした。伊藤博文は吉田松陰の松下村塾に入り、ここで桂小五郎(のちの木戸孝允)や高杉晋作と知り合い、幕府を倒すための仕事にたずさわりました。明治政府ができると政府の中心として働くようになりました。
大久保利通の死後、伊藤博文は政府の最高責任者の地位をひきつぎました。明治十一年にして、農民出身者が国のトップになったのですから、わが国の実力主義もたいしたものです。伊藤は、大久保のつくった土台の上に、りっぱに近代日本という国を建てる大きな仕事をなしとげていきました。
大久保利通が世界を見てきた「岩倉使節団」にも、伊藤博文は同行しました。大久保はこの旅から「富国強兵」という大方針を打ち立てましたが、伊藤はこの旅から「不平等条約を改正するためのに何が必要なのか」を思い知らされることになりました。
条約改正(平等にしてほしい)の交渉にのぞんだ伊藤たちを、アメリカはまったく相手にしなかったのです。その理由は、「国会と憲法がないような国とは対等につきあうわけにはいかない」というものでした。
このときから、伊藤博文をはじめ日本のリーダーたちにとって、「国会と憲法」は、必ずやりとげなければならないもうひとつの大方針となったのです。
明治十四年、「十年後の国会開設」を国民に約束した伊藤博文は、いろいろな国の憲法を研究するためにヨーロッパの国々をまわりました。この中でとくにドイツの憲法を中心に研究しました。西洋の強国の中でも、ドイツがいちばん日本の手本になる国に見えたからです。博文はここで憲法学者のグナイストに先生になってもらい、いろいろと教えてもらいました。さらに、オーストリア、ベルギー、イギリス、フランス、ロシアなどをまわって約一年ぶりに帰国しました。
伊藤は帰国後、ただちにいろいろな準備にかかりました。明治十八年に内閣のしくみをつくり、初代の内閣総理大臣になったこともその一つです。
この後、博文は伊東巳代治(いとうみよじ)、井上毅(いのうえこわし)、金子堅太郎(かねこけんたろう)といっしょに神奈川県夏島の別荘で憲法を作るための合宿生活に入りました。 四人は朝起きると議論、ご飯を食べながらも議論という生活を一年間も続けました。伊藤は、他の三人に国のためにえんりょのない意見を言うように求め、他の三人もそれにこたえて、地位の上下にとらわれない討論をとことんやったのです。
伊藤たちのけんめいな努力が実って、大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されたのは、明治二十二年二月十一日のことでした。その日は、大昔に神武天皇が初めて国をつくったといわれる日(紀元節)のことでした。
そして、翌年の七月一日には第一回衆議院総選挙が行われ、わが国最初の国会(帝国議会)が開かれたのは、明治二十三年十一月二十九日のことでした。明治政府はみごとに国民への約束を果たし、日本は西洋人以外の国では初めて、憲法にもとづいて政治を行う国「立憲君主国」になったのです。
◆正解は、憲法と国会だったことを確認する。
2 グナイストの指導と伊藤の決断
(プリントの続き)
さて、伊藤博文は憲法を作るときにドイツで憲法学者のグナイスト博士からいろいろなアドバイスを受けていました。
その中の一つに「国会の力をどのぐらいにするのがよいか?」という問題がありました。
グナイストは伊藤にこう教えました。
「政治は法律と予算(税金の使い道)にもとづいておこなうのが立憲政治です。西洋では、この法律も予算も国会が決めて政治を進めるのがふつうです。しかし、日本の場合は法律と予算は政府が決めるのがよいでしょう。憲法にそう書けばいいのです。
そうしないと、政府がやろうとしたことに国会が反対したとき、国のために必要なことができなくなってしまうからです。西洋では、国会と政府が対立して政治が進まず、困ることが多いのです。国民はふつう税金は安ければ安い方がいいと考えますが、政府は富国強兵のためにやらなければならないことがたくさんあります。国民が選んだ議員の考えと、政府の考えが対立する場合が多いのです。法律も予算も国会の多数決で決めるようにしたら、国民のわがままばかりが通るようになり、きっと日本はほろびてしまうでしょう。国会は国民の代表者が話し合い、政府に意見を言う場にして、予算や法律を決める場にはしないほうがいいのです。無理をしてはいけません。国民が成長すれば、憲法を変えていくことはいつでもできるのですから。」
◆プリントの話題を受けて、次の発問をする。
グナイストの指導に対して、伊藤はどのような判断をしたでしょ
うか?
A 法律も予算も政府(内閣)が決める。
B 法律か予算のどちらかだけを国会が決める。
C 法律も予算も国会が決める。
◆A、B、Cごとの人数分布をとり、話し合わせる。
◆正解はC
伊藤は「西洋にできることは、日本にもできると証明しようとした」と話す。
◆森有礼との論争を教える。「臣民の権利について」
森は天皇陛下の臣民には権利はいらないのではないかと主張したが、伊藤は、国民の権利を守ることが憲法の重要な使命であると述べて、森らの意見を退けた。
3 明治憲法を知る
◆板書
明治22年(1889) 2月11日 大日本帝国憲法発布
23年 7月1日 第一回衆議院議員総選挙
11月29日 国会(帝国議会)
◆プリント「憲法抜粋」を配り、おもな序文を読みながらかんたんに説明していく。
◆明治憲法には西洋に学ぶ面と、伝統を守る面とがあったことを教える。
(西洋に学ぶ)
*国民の権利・・・居住・移転の自由、職業の自由、裁判に訴える権利、宗教の自由
言論の自由、集会の自由
参政権(25歳以上の男子:税金15円以上)
国民の義務・・・教育、納税、兵役の三大義務
(伝統を守る)
*万世一系の天皇を君主とした。
◆日本は、アジア初の立憲制度の国になったことを教える。
◆天皇独裁のような見方があるこtを教え、次の発問をする。
天皇が、国会や裁判所や内閣が決めたことを否定したことが何回あったでしょうか?
A 一度もなかった、 B 数回あった C 数十回あった。
◆正解はA.天皇は国民の決定に印を押して権威を与える役割だったこと、それが天皇が考えた立憲君主制であったことを教え、今日につながる民主主義の第一歩であったことを教える。
4 明治憲法の評価と教育勅語
◆自由民権派の評価「政府は約束を守った」を教える。
板垣退助の言葉
「一たび憲法が発布されると、国中挙げてまるで戦争に勝って凱旋するような気分になり、皆、永年の望みがついにかなったことを喜び、お互いに慶賀しあい、一晩で藩閥政府対民権運動の抗争を忘れたようなありさまだった」
「前の日まで死を賭して争ってきた人々も、すべてを忘れて、和気真にあいあいたるものがあった」
(板垣退助「自由党史」)
◆世界の評価を教える。
*イギリス「タイムズ」
「アジア人である日本で、議会と憲法がつくられたのは何か夢のような話だ。これは偉大な一歩である」
*ハーバード・スペンサー(イギリス人)
「日本の憲法は、西洋に学びながら、たんなるまねでなく、日本の古くからの伝の津も忘れずに、少しずつ進歩していこうとしている。たいへんりっぱなことである。」
西洋諸国は、不平等条約を平等に改正してくれただろうか?
A:改正してくれた B:改正してくれなかった
◆正解は、Bの改正してくれなかった。
◆最初の帝国議会が開かれるとき、天皇陛下から「教育に関する勅語」が出されたことを教える。
民主主義は国民の道徳によって支えられるという考え方のもとに、この勅語がつくられたことを教え、それが日本人の生き方の背骨をつくったと言われていることを教える。
◆「教育勅語」の言葉の現代語訳を読み、授業を終える。
*プリント「教育勅語」
「現代語訳:教育勅語」
君主として私の考えを述べる。
私のご先祖は、遠い昔にこの国を建国し、深く厚い徳をうち立ててきた。わが国民もまた、皇室には忠義つくし、両親には孝行をつくして、心を一つによい行いを積み重ねてきた。これはわが国の優れた美質であり、わが国の教育がめざすものはまさにここにある。
したがって、あなた方国民は次のような徳を身につけなければならない。
父母には孝行すること。兄弟にはやさしくすること。夫婦は仲良くすること。友だちは互いに信じ合うこと。
慎み深く自分の心を引き締め、分けへだてなく人に愛情をそそぐこと。
学問を修め、様々な技能を身につけ、知能を啓発して、立派な人格となること。
すすんで公のためにつくし、世の努めを果たすこと。必ず憲法を守り、国の法律に従うこと。もし国家に危急の時があれば、正義にかなった勇気をふるいおこして、国のためにつくすこと。そして、天地に極まりのない天皇の国が発展することを助け支えること。
このようなことは、ただ私に忠実な国民として価値があるだけでなく、それは、あなた方自身のご先祖が残した美風に感謝し、それをたたえることにもなるのだ。
この道は、私のご先祖たちが残した教えであり、私の子孫と国民すべてが共に守っていくべき教えであり、昔から今に至るまで誤りのない教えである。この教えは、我が国ばかりでなく、諸外国においても十分道理にかなう教えとして通用するものである。
私は、あなた方国民と共に、心をこめてこれらの教えを守り、皆がその徳を一つにすることを願うものである。
明治二十三年年十月三十日 御名御璽
(教育勅語をもとに作成)
コメント
コメント一覧 (2件)
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こんにちは、面白く読ませて頂いております。
一つ意見を述べさせてください。
教育勅語の現代訳の最後の一文。
>私は、あなた方国民と共に、心をこめてこれらの教えを守り~
の部分ですが、これは「自分も守るから、皆さんも一緒に守りましょう」
という日本における立憲君主制のあり方である君民共治、
つまり日本の歴史・伝統・文化そのものを顕している部分だと思います。
なので最後にそういった話を付け加えられないものかなと思いました。
しかし小中学生に対してそこまで加えるとなると、一つの授業に収まらないのかもなと。
授業を組み立てるというのは大変そうですね。
また続きを読ませて貰おうと思います、失礼します。
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tak様
たいへん素晴らしご指摘をいただき感激しています。
ぜひ今年は教育勅語をもう少していねいに解説したいと思います。
帝国憲法が古事記・日本書紀以来のわが国の統治の伝統をふまえた、いかにすばらしいものだったかということを教えるのがこの時間の主題ですが、健康な明治の国体は、憲法と教育勅語の両輪があって礎ができたはずです。
いつも憲法の意義を教えるのに時間を使ってしまって、勅語のほうは通して読むくらいしか時間がなくなってしまうことが多いのです。お恥ずかしい限りです。
立憲君主制を君民共治としてとらえることについては、自由民権運動を教えるときに、大久保利通の政体に関する建白書を使って教えるようにしています。
これについても古代から続く「大御宝」という思想、近世の上杉鷹山までをつらぬく日本の伝統とのつながりで教えたいと願ってはいるのですが、なかなか思うこととできることが一致しません(笑)。
がんばっていきますので、これからもぞうぞよろしくお願いします。