吉田松陰「維新の志士を育てた人」
●吉田松陰を通して、維新の志士とは何かを教えます。いくつもの問いがありますが、扱いに軽重をつけて(クイズとしてさらっと流すものと、少し時間を与えて考えさせるもの)進めます。
【説明】
・1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた。
・5歳、藩の軍学の先生の家、吉田家の養子になる
・11歳、藩主の前で講義をする。
・19歳、藩校の教授になる。
・23歳、江戸で遊学中に、ペリーの黒船事件にあう。
2 藩の政策に反論
黒船が来たとき、長州藩では「江戸のことは幕府にまかせればいい。わが国には責任がないことだ」という意見がほとんどでした。松陰はこの意見に強く反対した人です。どんな反論をしたのでしょう?
【松蔭の反論】
「外国が日本を困らせているときは、幕府も諸藩もない。すべての武士が力を合わせて外国に立ち向かうべきである」
『当時「わが国」といえば自分の藩のことでした。250年もの泰平の世をまったく外国を意識しないできた多くの武士にとって、自分が責任を持つべき国とは自分の藩のことだったのです。全国に藩は300もありました。だから、多くの武士は自分の藩については責任感がありましたが、日本全体のことは幕府の責任だと考えていました。
吉田松陰は、武士ならばだれもが、日本全体に責任がある考えた最初の武士の一人でした。このような考えを持った武士のことを、「志士」といいます。』→板書
3 黒船に行ったわけ
翌年、2度目にペリーの黒船が来たとき、松陰は小舟に乗ってペリーの軍艦に近づきました。午前2時頃のことです。松陰は何をしようとしたのでしょう?
A:ペリーを暗殺する B:ペリーと話し合う C:アメリカに行く
『正解はCです。日本とアメリカの軍事力の差はどうしようもないくらい差がある。だから、自らアメリカに行って敵のすべてを研究し、その知識を日本に持ち帰って、日本を西洋に立ち向かえる国にするために働こう。それが松蔭の考えでした。』
『失敗した松陰は、その足で役人のところに行き、これこれしかじか、国法を破ろうとしたが失敗したといさぎよく自首しました。死罪を免れないかもしれないことは百も承知でしたが、そこが松蔭の恐ろしいまでに正直なところです。結局、松蔭は牢屋に入れられました。そのときつくった和歌を教えましょう。』
【 かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂 】 →板書
*この歌は子供たちと一緒に朗誦しましょう。
4 野山獄の変化
江戸から長州に帰され、松陰は長州藩の野山獄という牢屋に入りました。松陰が入ると、牢屋の中におもしろい変化が起きました。次のどれでが始まったのでしょうか。
A:勉強 B:物づくり C:レクリエーション
『正解はAです。生きる希望を失って病人か亡霊のようになっていた罪人たちに、道徳や学問、いま日本が迎えている危機と日本人ならどうすべきか等々を教え、また、彼ら自身にも得意なこと(習字、俳句など)の先生をやらせ、牢屋を生き生きした学校に変えてしまったそうです。生まれながらの熱血教育者なのです。』
5 松下村塾
『やがて、松陰は牢を出され家に帰されました。しかし、罪が許されたわけではなく、家の外には出られず、どこへも行けません。そこで、家の離れで松下村塾という塾を始めました。そして、藩の武士だけでなく、足軽や町人や農民など、身分に関係なく学ぶ意欲があれば塾生にし、月謝も取りませんでした。』
松陰はこの塾で自分のことを「A」とよび、塾生のことを「B」とよびました。 AとBに言葉を入れなさい。
【A=「ぼく」 B=「きみ」】
『武士の塾生は「せっしゃ」「それがし」、農民の塾生は「おら」「あなたさま」などと言い合っていたら、松蔭の理想はかないません。そこで、塾生は皆「ぼく」「きみ」と呼び合うようにさせたそうです。身分で差別しないこの言い方は塾生のあいだにすぐに広まりました。いま、男の子が自分のことを「ぼく」というのは、松下村塾から始まったことなのです。』
『この松下村塾から、日本の新しい国づくりを進めた維新の志士たちがたくさん育ちました。』
*高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、伊藤博文、山県有朋、井上馨などを教える。
5 通商条約の前と後
松陰が松下村塾で教えているころ、ハリスとの通商条約の交渉が進められてました。松陰はどちらの意見だったでしょうか?
A:開国 B:攘夷
【正解はA】
『松陰は攘夷の決行を求める朝廷に次のような意見書を出しました。「鎖国を守るという考えは、一時的には無事のように見えるが、一時しのぎのやり方でとうてい日本の今後を考える大方針とはいえない。国内でも自分の藩に閉じこもっているのと全国を歩いているのでは、知識に大きな差が出る。ましてや、いまは世界が相手 になっている。日本のリーダーなら、世界をよく見て知識を広め、西洋と対等につき合える国にするべきだ」。』 →太字を板書
では、松陰は幕府が独断で締結した修好通商条約(開国)に、どんな意見を持ったでしょうか?
A:賛成した B:中立 C:反対した
【正解はC】
『松蔭はこういいました。「この条約では、日本はアメリカの思うままだ。いずれ条約を結ぶことは必要だが、それは日本の力を強くしてからでなければならない。強いものにへつらい、まるで西洋の家来になったような態度で結ばれた条約には絶対に反対である」。条約締結前の考えと矛盾するようですが、西洋と対等につきあえる日本にならなければならないという考えこそが、吉田松陰の第一の目標でした。』
『こうして、長州藩は幕府が天皇の許しを得ずに結んだこの条約に反対しました。そして、攘夷戦争を決行する→幕府を倒して新しい国づくり→実力をつけてから開国する、という大方針をもって動き始めます。』 →太字を板書
6 吉田松陰の手紙
『吉田松陰は、老中暗殺計画を立てた罪で、幕府によって死刑にされました(安政の大獄)。1867年、江戸時代が終わる1年前のことでした。享年29歳。あまりにも若すぎる!』
『江戸に送られる前、吉田松陰は高杉晋作にだいじな質問を受けていました。松蔭は自分が死刑になる直前に、この質問に答える手紙を書いています。そこには、維新の志士たちすべてが持つことになる死生観(人はいかに生きるべきか?)がつづられています。それを読んで今日の授業を終えましょう。』
●以下をプリントして配り、教師が読む。
吉田松陰の手紙
高杉晋作君。
君は質問した。男子の死ぬべき所はどこかと。
私も昨年の冬、投獄(とうごく)されて以来、考え続けてきた。
死は好(この)むべきものではないが、また憎(にく)むべきものでもない。
世の中には、身は生きていても、心は死んだのと同じという人がいる。
反対に、身はほろびても、たましいは生き続けている人もいる。
死んで、不朽(ふきゅう=永遠にほろびない)のことが残せるみこみがあれば、いつ死んでもよい。
また、生きて大業(たいぎょう=大きな仕事)をなしとげるみこみがあれば、どこまでも生きる努力を続けなくてはいけない。
人間というものは、生死のことなど度外視(どがいし=考えに入れないこと) して、いまじぶんがやるべきことをやるという心がまえが大切なのだ。
■日本の危機に、幕府だけに責任を押しつけていてはだめだ。日本(国)のことを自分のこととして考え行動できる人になれ。そう弟子たちに教えた吉田松陰は、まさに自分自身が教育者として、愛国心を実行した人でした。
こうして、日本中の若い武士たちが、志士として考え行動するようになっていきました。維新(いしん)の志士とよばれます。維新とは「国を新しくつくりかえる」ことです。
彼らは、日本という国の危機を自分のこととして受けとめ、命がけで学び、命がけで日本のために働き始めました。まさに我が国が誇る偉大な英雄たちです。
長州藩・・・木戸孝允(21)、●高杉晋作(15)、●久坂玄瑞(14) ●伊藤博文(13)、●山県有朋(16)
薩摩藩・・・西郷隆盛(27)、大久保利通(24)、東郷平八郎(7)
土佐藩・・・坂本龍馬(十九)など。
●印は松下村塾で学んだ、吉田松陰の生徒です。(数字)は、ペリーの黒船が来航したときの年齢です。
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