栗林忠道は、明治24年、長野県松代のもと郷士の家に生まれた。少年時代の栗林は、並はずれた集中力を持ち頭脳明晰で文才に恵まれていた。
中学校を出た栗林は、陸軍士官学校から陸軍大学校に進み次席で卒業して天皇陛下から軍刀を拝領した。しかし、幼年学校出身ではなかったため、陸軍組織の本流からは外れ、同期生に比べると出世は遅れた。道の平坦ではなかったことが、かえって栗林の強靱な意志力を鍛え、誇り高い人格を形成することになった。
昭和3年、栗林忠道は陸大次席の報償として、恐慌前の好景気に沸くアメリカに留学した。忠道はここで見聞を広め、持ち前の合理的な思考力に磨きをかけるとともに陸軍きっての米国通になった。
米国滞在中、栗林はまだ字の読めない息子に沢山の絵手紙を送っている。それは毎回「太郎君へ」で始まり、達者な鉛筆画に語りかけるような平易な言葉が添えられている。栗林の家族思い、子煩悩な人柄を彷彿とさせる挿話である。
このとき妻には「米国は世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いを避けるべきだ」と書いているが、大東亜戦争が始まっても、栗林は政治にはいっさい発言しなかった。
自身の米国観がどうであれ、祖国がいったん興亡をかけた戦争に突入すれば、黙ってこれに処するのが軍人の本分である。それが栗林の変わらぬ信条だった。
昭和19年5月、陸軍中将栗林忠道は硫黄島防衛の任務に就いた。硫黄島は、サイパン島を離陸したB29が東京を空襲するための航路に位置している。ここにわが軍が健在なうちは、本土空襲も敵の意のままにはならない。
ここを守り抜くことによって首都東京を大空襲から守ること。それが、日本軍が硫黄島を守りぬこうとした理由である。
着任した栗林師団長は自ら陣頭指揮を執った。
まず島民800名全員を疎開させ、地下要塞を構築して持久戦に持ち込むという戦術を策定した。
従来、上陸作戦に対抗するには敵が最も無防備になる水際で撃滅する作戦が常道だった。しかし、栗林は、制空権・制海権を奪われ空爆と艦砲射撃に援護された上陸部隊を水際で迎え撃っても、長くは持ちこたえられないと考えた。
栗林の目標は明確だった。1日1時間でも長く、首都を、国民を、家族を守り抜く。
そのためには、敵を上陸させてから、地下要塞を使って神出鬼没のゲリラ戦を展開し、持久戦に持ち込むことだ。
そして、補給がない以上いずれ全滅が免れないとしても、米軍に大きな損害を与えることが出来れば終戦への道が開けるのではないかと考えていた。米国の政治が世論で動くことを知っていたからである。
しかし、硫黄ガスが吹き出し、地熱のため40度以上になる地下に、無数の陣地とそれらを縦横につなぐトンネルを掘ることは想像を絶する困難な作業だった。兵士たちはよく耐えて地下10mに全長約18kmにおよぶ地下要塞をつくりあげた。
さらに栗林は、将兵たちに厳しい軍律を課した。当時の日本軍は敗色が濃くなると「潔く死のう」と抜刀して突撃する例が多かったが、栗林はこれを厳しく禁じたのだ。これは命を粗末にするなということだった。
そして「敵十人を斃さざれば死すとも死せず」「最後の一人となるもゲリラによって敵を悩まさん」などの敢闘の誓いを守らせた。これは、命を最も有効に使いつくせということだった。
ここまで厳しい将軍に、2万人の将兵が最後までについてきた。
栗林には部下と運命を共にするという明確な意志があり、それがすべての兵に伝わっていたからである。兵と同じ食事をとり、兵と同じ一日コップ1杯の水しか使わず、戦いの最後の訓辞で「余は常に諸氏の先頭にあり」と言い切ったように、最後まで率先垂範したからである。
昭和20年2月、米軍の上陸作戦が始まった。米軍の総兵力はおよそ12万人、栗林の兵力のおよそ5倍だった。しかも空と海を制した圧倒的な物量である。米軍は5日間で占領できると見ていた。
しかし、白兵戦を交えた死闘は3月26日まで1ヶ月以上続いた。
米軍の死傷者は28689人(戦死6821人)、日本側の死傷者は20933人(戦死19900人)、死傷者の総数は米軍のほうが多かった。アメリカの新聞は実質的な敗戦ではないかという記事を書いた。
3月17日、栗林は大本営に「戦局、最後の関頭に直面せり」という決別電報を打ち、辞世「国の為重き務めを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」を遺した。
兵と共に突撃して死んだ師団長は、陸軍の戦史のなかで栗林のみである。栗林がいかに誇り高い指揮官であったかがわかるだろう。
栗林は「重き努めを果たし得で」と詠んだが、硫黄島の戦いはアメリカ人の継戦意欲を著しく減少させた。日本の兵士2万を倒すために、米軍兵士の2万8千を死傷させなければならなかったからだ。
続く沖縄戦でも約5万人の戦死傷者を出したアメリカは、ついに無条件降伏という大方針を撤回してポツダム宣言を発表した。それは日本政府に領土保全等の条件付きで降伏をよびかけたものであった。
硫黄島の勇戦は終戦への扉を開く第一歩となったのである。栗林忠道の偉大な功績である。
参考文献
・梯久美子『散るぞ悲しき--硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)
・栗林忠道・半藤一利解説『硫黄島からの手紙』(文芸春秋社)
・吉田津由子編『「玉砕総指揮官」の手紙』(小学館文庫)
・別冊宝島編集部編『栗林忠道』(宝島社)
コメント
コメント一覧 (4件)
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栗林中将、映画”硫黄島からの手紙”で渡辺謙さんが演じたのをよく覚えています。
留学した米国との戦争、辛い思いもあったことと拝察します。
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桃源児様、コメントありがとうございました。栗林中将は毎年授業をしています。小学生も感動します。読んでいただきありがとうございました。
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「硫黄島からの手紙」を見るまで硫黄島も栗林中将も知りませんでした。
日本人として本当に申し訳ないことです。
私は高校までですが歴史の勉強は好きでした。
でも明治維新のころまでくると学期末になったのかあまり記憶が
ありません。
もう40代の息子たちも多分教えられていないと思います。
「日本人はとても残虐なだけの民族」だと言っていたことが
あるので。
こんなに立派な日本人のことを知らないのはかなしいことだと
思います。
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ownan様
コメントありがとうございます。
私たちには世界のどこに出しても誇りに思える先人がたくさんいたこと、
その先人達の思いや行動をしっかり伝えることは、
歴史教育の大切な目標の一つです。
祖国を誇りに思える生徒を育てていきたいと思います。