北条時宗と蒙古来襲
●わが国が国土を本格的に攻撃されたのは、この時と、大東亜戦争(太平洋戦争)の2回です。硫黄島や沖縄の戦いと同じ比重で、北条時宗と鎌倉武士の戦いを顕彰しなければなりません。児童がおのずから感謝の念を抱かざるを得なくなるような、共感の授業をめざしましょう。
1 フビライの国書
*チンギス=ハン(ジンギス=カン)と板書する。
*モンゴルの伝説で蒼き狼と呼ばれたこの人物が大帝国を築いた。
歴史上最強のモンゴルの騎馬軍団
*孫のフビライ=ハンの時代にモンゴル帝国は元を国号とした。
*元の版図を見せる。
*1231年、朝鮮半島(高麗)が支配された。
「とらえられた男女は20万6600人。殺された者は数知れなかった。」
*板書:1268年、ジンギスカンの息子のフビライから国書が届いた。
■プリントを配り、読む。
【皇帝フビライからの国書】
天のいつくしみをを受ける大蒙古皇帝が、日本の王に書く。
私の考えでは、おまえのような小さな国の王というものは、
国境を接している大きな国と友好につとめるものだ。
私は、天の命令で、世界を支配している。
だから、まわりの小さな国はみな、私の力をおそれ、尊敬して、したってくれている。
いまや中国も朝鮮も、私の支配下にある。
昔から、考え深い者は、世界を一つの家にしたいと願うものである。
おまえの国も、他の小さな国と同じように、私の国に使いをよこして、仲良くしようと努力すべきではないか。
わざわざ軍隊を送っておまえたちを征服するようなことは、ほんとうはやりたくはない。
日本の王よ。
このことをよく考えて、返事をよこすがよい。
至元三年(一二六八年) 八月 大蒙古国皇帝フビライ
〈みなさんが鎌倉時代の日本のリーダーだったら、この国書を受け取ってどうしますか?
A言うことを聞く B無視する C断る
A~Cの中から、一つ選んで、その理由をノートに書きなさい〉
*意見分布を取り、板書する。それぞれの意見を発表させる。
【解説】仲よくなるのはいいことだという平和主義者もいる、こんな大帝国を敵に回すのは賢くないという現実主義者もいる。が、半数以上は、フビライの見下したような物言い(私がいかにもそういううふうに読むから)がおもしろくない。元に支配されたくないという思いは同じだが、元を相手に戦争になっても大丈夫かという迷いもある。負けたら日本は滅びてしまうだろうと。なかなかおもしろい話し合いになります。
*北条時宗の考えはこうだった。
「この手紙は友好を求めているように見えるが、フビライは日本を支配したいのだ。日本の独立を守るためには戦うしかない。返事は出すな」
*使者は4回やってきたが、4回ともこれに返事は出さなかった。
2 文永の役
●地図を示す
*1274年(文永11年)十月、時宗24才。 ついに元の大軍がおしよせてきた。 軍船900 兵士33000人
*その半分は高麗軍(朝鮮)兵士、船も元の命令で高麗が造った。
*「対馬の武士たちは奮戦したが全滅。女たちは掌に穴を空けられて縄を通され、船べりにつながれて連れ去られた」
●「蒙古来襲絵詞」から元の戦法を見せる
〈日本の武士が見たことがなかった戦い方があった。この絵を見て、それを見つけなさい。〉
*集団戦、銅鑼の音、毒矢、てっぽう(ばくだん)
『博多の町は焼かれ、武士たちは大敗北して、南に敗走しました。天智天皇の水城まで退き、夜になって、博多の町が燃え尽きるのを呆然として見ていました。そして、これで日本も終わりかという思いで眠りました。
しかし、その翌朝のことです。海に浮かんでい無数の軍船は1隻残らず消えていまた。』
*「暴風雨で沈んだ」説と「大勝利と判断して帰った」説がある。後者は、「これだけの力の差があれば、日本は元の家来になると判断していったん引き上げた」というもの。
3 弘安の役
*このあとまた国書がきた。
フビライは戦いは圧倒的に優勢だったのだから、簡単に日本は屈服すると考えたらしい。
しかし、時宗は使者を鎌倉の海岸で斬って捨てた。
武士たちに自分の断固たる意志を見せるためだった。
〈北条時宗は必ずもう一度攻めてくると考えて、国を守る備えをしました。国が滅びるかどうかの史上最大のピンチです。どんなことをしたでしょう?〉
*アイデアを発表させてから、北条時宗の対策を教える。
1 朝廷と幕府が団結して神や仏に祈る。
2 上陸させない作戦・・・・・・・・・・博多湾の海岸沿いほぼ全面に石垣(石塁)を築いた。
3 情報収集(スパイ)・・・・・・・・・時宗は、いつ攻めてくるかを知っておいた。
【解説】2は知っている児童がいます。『なぜ石垣を築くけば勝てるのか』と切り返しましょう。騎馬軍団は上陸さえないで海上で戦え、というのが時宗の作戦でした。3は、似たような意見が出てきます。情報戦の重要性を教えましょう。1は児童には思いつきにくい「対策」です。だから、ここで教える必要があります。彼らはしんけんに祈ります。ひたすら祈ることは現実でした。そして天に通じます。
*1281年(公安4年)6月~7月。 弘安の役
*軍船4400 兵士140000人 ■前回との差!!をつかませる。
■6月東路軍が上陸開始。石塁にそって陣をしいた武士達は「一歩も上陸させるな!」と雨のように矢を射った。さらに海上の元船に小舟で押し寄せ、乗船し、勇敢に奮戦して元軍をひるませんた。ついに元軍は船に引き上げた。
■江南軍10万人が到着。しかし、なぜかすぐには攻めかてこなかった。
■7月30日、台風が元軍の大船団を襲った。
大荒れに荒れる海に、ほとんどの船が沈没した。
船同士がぶつかり合って壊れるものもあった。海に投げ出された無数の将兵が海の藻屑と消えた。
■その台風が去った後に、やっとの思い出海岸にたどり着いた元軍に、武士達が襲いかかり全滅させた。
『こうして元軍は「十のうち、生きて帰る者一、二だった」と、元史に記された惨敗でした。』
*勝因は「武士の命がけの働き」と「台風(暴風雨)」だった。
台風の時期まで延びていたのは、鎌倉武士の知恵と勇気の結果であることをおさえる。
4、まとめ
『弘安の役の3年後、北条時宗は34歳の若さで亡くなりました。18歳で元の国書に決断を下してから、16年間、ただひたすら国を守るために元と戦い抜いた人生でした。日本の恩人です。
元寇のあと、鎌倉幕府もおとろえていきました。そして50年後に鎌倉幕府は滅びました。
そのいちばん大きな原因は、元寇の恩賞を与えられなかったことでした。
外国の侵略と戦って勝利しても、新しい土地は得られません』
『これが平安時代でなくてよかったね。もし武士の時代になっていなかったら、このとき日本は滅びていたかもしれません。鎌倉武士たちの命がけの戦い、時宗の知恵と勇気、そのおかげで、自然の猛威さえ味方につけられた日本の勝利でした。こうして日本の独立と安全が守られました。
もしこのとき祖国が滅びていたら、いま私たちはここにいないでしょう』
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