★仮説実験授業は「授業書」で進める。授業書には前回書いた「問題」の連なりでできているが、たまに「質問」「お話」「作業」「研究問題」などが入る。
「質問」はだれか知っている子供が答えればいい問題のこと。知らなければさっさと教えればいいとされている。
たしかに授業を進めるときこういう質問が要ることがある。「子供中心の授業」原理主義に陥ると、こういうところでも教師が教えたくなくて、「ほかに」「ほかに」と子供たちを指名し続けたりする。
板倉が「問題」と「質問」を分けるのは、そういう無意味な指導をたしなめるためである。
「お話」は「はかりのはなし」などそこで伝えたい情報をまとめたもの。「作業」は「上皿天秤(うわざらてんびん)の使い方」のように実験器具の使い方などを教えて作業させるステップ。「研究問題」は「進んでやる問題」とされ調べたい人だけが調べる問題とされる。
★前回の投稿で何人かの若い教師の皆さんがほとんど「仮説実験授業」を知らないことがわかってびっくりした。残念な話である。教員免状を得るために、ルソーやペスタロッチやデューイは学ぶが、板倉聖宜の仮説実験授業は知らないでよいと考えられているらしい。向山洋一の教育技術の法則化運動もそういう扱いかもしれない。日本の教育学は相変わらず情けない水準にあるようです。
★この事態はあんまりなので、予定を変更して「物とその重さ」の「問題2」以降をすべてとはいかないが紹介しようと思う。若い先生方に伝えるためである。引用は前回同様、板倉聖宣『未来の科学教育』(国土社)です。
問題1では、体重計の上でどんな格好をしても、力んでも力まなくても、体重は変わらない。という実験結果を突き付けられた子供に与えられる第2問はこれです。

アが2人、イが2人、ウが0人、エが38になった。
選択肢全部にいちいち手を上げさせて意見分布を黒板に書くことについて板倉はこう書いている。
「どの予想も差別しないで同じ一票として扱うところにこの授業の民主主義的な性格があるので、少しくらい時間がかかるからといいって集計作業をおろそかにしてはいけない」
★これは歴史の授業でも同じだった。子供たちは「ウ 〇人のうちの一人は自分だ」ということを強く意識している。
一度も自分の意見が言えず聞くだけで終わっても一度は自分の考えを挙手で主張した証拠が必ず」黒板に残っている。
「科学というものは社会的な存在であって、科学的思考は他人との関係において発展したり停滞したりするものだという観点から、できるだけ子供たちの予想や考えを相互に公にさせることが大切だとしている」
★自分の考えは誰と同じで誰と違うということを挙手で知る。自分の考えも知られる。それを受け入れて共に考える。応援したり批判したりする。そのやりとりをずっと聞いている。
子供たちのこういう活動は理科だけではないく他の学習にとってもとても意義があることだ。
それを「知識も理解も思考も社会的なものだ」と板倉は言っている。
少数の天才の創造に見える科学でさえそうなのだから、歴史などの人文知の学習ではその意味は桁違いに大きくなる。
第1問でわかったことをほとんどの児童は第2問に当てはめてエを選んだ。
しかし4人は選ばない。バカだからか?たぶんそうではない。
「人間と粘土では違うだろう」と考えている子供がいるのだ。
「人間のときは姿勢は変わってが形は変わっていない。粘土は形を変えている」
「固めたほうが重い」「丸いほうが重いだろう」「四角いほうが重いだろう」・・・
もちろん、討論は圧倒的にエが有利になり、最終的にその4人は意見をエに変えることになった。
全員エなら実験は必要ないか?が話し合われ、やっぱり実験はやったほうがいいとなり、結果はエが真実だった。
★これを読んで本当に驚いたのを昨日のことのように思い出せる。
ああこれが「子供が考えている授業だ」とほんとうに思ったのです。
そして、子供がどう考えるのかということがこれほど目に見えるようになっている授業の記録を初めて読んだような気がした。
同時に、4人は本当に考えを変えたのかどうか少し疑問に思ったことを思い出した。ぼくの経験では子供は一度決めた考えをなかなか変えないものだったからだ。これは「社会の力」で意見を変えた可能性があるかもしれない。
しかし、結果を見た子供たち4人は説得されて、意見を変えてよかったと思っただろう。

「問題3」では、アが3人,イが4人、ウが35人になった。
話し合いを読むとどうしてこの問題が3番めに来るのかがわかって面白い。
ア「その粘土が外に出ていると、空気に当たっているので、その分の重さははかりの目盛りに出ないから軽くなります。全部台に乗せないと正しくはかれないと思います」
イ「赤ちゃんや人間でもだらっとしているときは重いので、これは外にだらっとなっているので重くなると思います」
ウの子供達は2問までで「物の重さ」の法則がわかったという立場で反論していく。体重の時と粘土の時の仮説と実験結果が彼らの武器になる。
しかし、話し合いを進めると、少数派は法則はわかったうえで条件による例外があると考えていることがわかる。直観と経験が動員される。
「台からはみ出ているのは前の問題にはなかった(だからこの場合は当てはまらないんじゃないか?)」
「わたし、ウからイに予想を変えます。赤ちゃんを抱くときだらっとしていると重いでしょ。だから。」
この体験知ががパワーを発揮する。女子の3人と男子の一人がイに意見を変えてしまう。ウに意見を変えた男子は一人。結果、アが1,イが7,ウが34になった。4人だったイが7人に増えている。
★子供たちが問題に直観・経験・思考をフル回転させて挑んでいることがわかる。しかも一番説得力があったのは経験による主張だった。問題1と問題2で得られた「法則的な理解」よりも経験の方がパワーを発揮した。
これをたった一人、たった七人じゃないかと考えて最大多数の幸福を大事にすればよいとする道もある。そのほうが教育の効率もいいだろう。
が板倉はそう考えないのだ。それは少数者を落ちこぼすなとか、人権がとか、そういう理由では、たぶんない。
板倉自身が、アやイの子供たちの思考に驚き感心しているからである。ここが重要。
子供ってホントにすごいことを考えているのです!と驚ける能力がとても大事です。それをまざまざと教えてくれたのが仮設実験授業でした。
もちろん実験結果は、ウ「はみ出ていても重さは変わらない」です。
討論でいちばん多くを説得できた意見はイ「だらっといてるほうが重い」でした。
こんどは説得されたら間違ったというケースになる。
討論で勝っても、意見に説得力があっても(その結果たとえ多数派になったとしても)、その意見が正しいかどうかはわからないのだなとわかったことでしょう。くりかえしこういう体験をしながら大事なことがわかっていきます。
(つづく)
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