源義経と源平の戦い



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源義経と源平の戦い

1 赤旗と白旗

*運動会の紅組と白組の応援旗を見せる。

『この紅組と白組の対決は歴史上のある事件がもとになっています。それは何でしょうか?』

*源氏と平氏の戦い(源平の戦い)
『平氏の旗は赤(紅)旗、源氏の旗が白旗です。全国の武士が二つの武士団に分かれて戦いました』

〈どちらが勝ったのでしょうか?〉

*源氏が勝ち、平氏が滅びた。

『源氏、つまり白組が勝ち、平氏つまり、紅組は負けて滅びてしまいました。平清盛を棟梁とする平氏の繁栄は、およそ20年しかもたなかったのですね』

*平家物語の冒頭を読む。

【解説】小学校で学級担任だったとき、朝の会などで古典の暗唱を日常的にやっていました。『平家物語』冒頭は定番だったので全員で大きな声で暗唱できました。この授業までに暗唱できるようにしておくと楽しいです。

●今日は、運動会の紅組対白組のもとになった歴史的な大事件「源平の戦い」と、この合戦のMVPだった源義経について勉強します。

2 義経と源平の戦い

おもな登場人物を紹介する。肖像を黒板に貼る

平清盛(1118~1181)
平清盛

源頼朝(1147~1199) 兄
源頼朝

源義経(1159~1189) 弟
源義経

*次の板書をする。

1159 平治の乱
平清盛の時代(20年間)
1180 源頼朝(33)が関東の武士団をまとめて立ち上がる。
弟義経(20)と再会する。

*義経(牛若丸)のエピソードを話す。
①鞍馬寺で天狗から武芸の訓練を受けた。
②少年時代、五条橋の上で弁慶をやりこめ家来にした。
③15歳のころ、東北の藤原氏の下に逃れ大事にされる。
 ④その途中で元服し、源九郎義経と名乗る。

『その義経が、兄頼朝から平家打倒の大将に任命され大活躍をしたのが源平の戦いです。有名な戦いは次の三つです。』

*以下を板書し、合戦の場所を教科書で確認する。

1184年2月 一ノ谷(いちのたに)の戦い
1185年2月 屋島(やしま)の戦い
3月 壇ノ浦(壇ノ浦)の戦い →平家の滅亡

*VTR「その時歴史が動いた:義経追討」から上記の合戦場面を見せる。ビデオがなければ紙芝居などで合戦ごとのエピソードを物語りたい。ひよどり越えの逆落とし、那須与一の扇落とし、義経の八艘飛び、などである。

【解説】因幡の白ウサギや八岐大蛇などの神話、京の五条の橋の上の義経弁慶の出会い、この源平合戦、忠臣蔵などなど、これらのお話しはつい最近まではふつうの日本人の常識だった。義務教育としての歴史教育には、そうした近代の日本人がアイデンティティーとして大事だと考えてきた先人の物語を語り伝えることも、大切な役割として求められているのだと考えています。

3 兄と弟の対立

『平家を滅ぼしたMVPは源義経でした。この間、兄の頼朝は本拠地鎌倉で武士たちをまとめる政治を進め戦争には参加していません。義経が勝利の英雄として鎌倉にもどってきました。このとき義経に思いもかけない運命がおそいかかります』

〈頼朝は義経を鎌倉に入れないばかりか、会おうともしませんでした。そして、京都 に追い返してしまいます。そして最後には殺します。どうしてでしょうか?〉

*ヒントの年表を見せて考えさせる。


(1184年)一ノ谷の戦いの後、義経は朝廷から高い位をもらった。義経はこの名誉な出世を頼朝に知らたが、頼朝は怒った。
(1185年)義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした後、京都で貴族の娘と結婚した。この結婚を頼朝は喜ばなかった。


*数名に発言させる。
*プリント「頼朝はなぜ義経を追討したのか?」を読む。


 頼朝はなぜ義経を追討したのか?

■まず、さきほどの年表を見ましょう。

1184年 一ノ谷の戦いの後、義経は朝廷から高い位をもらった。義経
      はこの名誉な出世を頼朝に知らせるが、頼朝は怒った。
1185年 義経は平氏を滅ぼした後、京都で貴族の娘と結婚した。
       この結婚を頼朝は喜ばなかった。

義経は、戦いを進めながら、朝廷の中で出世していきます。戦いに強いのに心は優しい義経は、貴族たちの人気を集めていきます。義経はこのことを源氏一族にとってたいへん名誉なことだと考え、当然頼朝も喜んでくれると考えていたようです。 義経は戦争の天才で、新しい作戦を考えるのが得意でしたが、政治については古い考えをもっていたことがこの年表でわかるのです。

 天皇を中心に国が一つにまとまっています。その下に貴族たちがいて実際の政治を進める政府「朝廷」があります。これが昔からの国の政治の仕組みでした。貴族たちは出世競争をして藤原氏一族が高い地位をひとりじめしました。そして天皇家と親せきになってその地位を守ろうとしました。武士であった平清盛も藤原氏と同じ考えでした。平氏がやったのはまったく藤原氏と同じことでした。そして平氏もいつのまにか貴族のようになってしまい、ついに源氏に倒されたのです。

 何百年続いた国の仕組みをうたがうのはむずかしいことです。義経もまた、源氏一族が朝廷の中で高い地位を得て、源氏が栄えることが、この戦いの目的だと考えていました。もしこの考え方を進めると、源氏もまた藤原氏や平氏のように、出身は武士だがやっていることは貴族と同じという結果になったことでしょう。

 頼朝はまったくちがう考えを持っていたのです。古い仕組みを根本的に変えてしまう新しいアイデアを持っていたのです。

 頼朝は、右の年表のようなできごとから義経の考えを見抜き、義経は自分の考える新しい政治の障害になると考えたのです。義経をこのままにしておけば、いずれは貴族たちに利用されて、自分に戦いをいどんでくると予想したのです。

 こうして、頼朝は追っ手をさし向けて、1189年、東北の平泉で義経を殺させました。

 31歳の若さで亡くなった戦いの天才義経。源氏のために大活躍をしながら、非情で冷酷な兄に殺されてしまった義経。日本人は長い歴史の中で、この悲劇の英雄を愛し続け、たくさんの伝説や物語が生まれました。


●武士としての独自の政権をうち立てようとしていた頼朝にとって、平氏と同様の考え方で朝廷の中に入っていこうとする義経(しかも人気があった)はたいへん危険な存在だった、とまとめる。

4 まとめ
日本のリーダーは日本全体に責任を持たなくてはいけない。頼朝は、母親が違うとはいえ、血のつながりよりも政治を選んだ。当時の武士の考え方で、兄弟や親子で戦うことは珍しくなかった。

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

コメント

コメント一覧 (4件)

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    すげーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーな  なにがすごいかというとなんとなく  

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    改めてみても、義経かっこいいい・・・・!

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    わかりやすい

    ありがとうございます(^^)

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    すげ------------------------------------------------------------------------------------------—-んだな

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