若井敏明『神話から読み直す古代天皇史』(洋泉社歴史新書)にこうある。
・・・纏向遺跡の発見である。この遺跡は邪馬台国との関連で論じられたり、報道されることが多いが、じつは崇神天皇時代の王宮らしいというのが大切なのである。(中略)崇神の王宮は『日本書紀』には磯城瑞垣の宮(しきみずがきのみや)、『古事記』には師木水垣宮という。またその子の垂仁天皇は『日本書紀』に纒向玉城宮(まきむくたまきのみや)、『古事記』には師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)とあって、磯城と纒向は同じ場所であったらしい。また垂仁の子の景行天皇の王宮は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)である。(P13)
・・・まず重要なのは、崇神朝にヤマトトトビモモソヒメの墓として営まれたという箸墓の年代が、240年から260年の間らしいということである。この古墳はもっぱら卑弥呼の墓の可能性のみが議論の対象となっているが、それよりも崇神朝の造営物ということが重要なのであって、これで崇神朝が3世紀の中頃であることが確かめられたのである。さらに、その年代は箸墓で確認された布留式という土器の年代でもあって、この土器の時代に営まれた巻向遺跡の年代推定にもかかわりが大きい。崇神朝は布留式土器の早期に相当するということである。
本書に導かれて、三輪山のふもとにある3つの伝承地と纏向遺跡を訪ねたというわけです。実際は伝承地ではなく纏向遺跡の巨大建物跡が宮殿だったのではないかと思われます。あらためて大和王権の誕生における三輪山の意義を深く思ったことでした。いつか磐余からも出てきたら楽しいなと思っています。
①10代崇神天皇 磯城瑞垣宮
『日本書紀』「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」
『古事記』「その御代を称えて初国知らしし御真木の天皇とまをす」
②11代垂仁天皇 纒向玉城宮
③12代景行天皇 纒向日代宮
神武天皇と欠史八代の天皇は実在していないというのが歴史学の常識になっています。多くの学者は日本書紀・古事記の編者が創作したものと考えているようです。数少ない学者の中には神話的な伝承はあったのではないかと考える人もいます。こんな感じのようです(間違ってるかもしれません)。
①第10代崇神天皇からを実在とする説・・・少数派(3割くらいか?)
②第15代応神天皇からを実在とする説・・・王朝交代説を含めて(4~5割)
③第21代雄略天皇からを実在とする説・・・ 行田と江田船山の鉄剣銘と「倭王武」でやや多数派に
④第26代継体天皇からを実在とする説・・・ これがほぼ定説
⑤第33代推古天皇からを実在とする説・・・推古からとする方が少数派かな?
ただ、実在していないことを実証するのは難しいような気がします。どういう手続きで証明されてほぼ全員の学者がそう考えることになっているのかはよくいわからないところがあります。
「実在を信じたからあの悲惨な戦争が起きたんだ。反省して、実在をなるべく信じないようにしたんだよ」というウソかほんとかわからないことを教えてもらったことがありました。ほんまかいな?
たぶん実在をはっきり証明できる証拠がないうちは「実在していない」と考えることにするということなのでしょう。
稗田阿礼も墓碑が出てきてからやっと実在を信じたわけです。そういう実証主義には欠点もありますが、それなりの根拠というか合理性があるといえるのでしょうね。
ただ、若井先生のおっしゃるように纏向遺跡と『日本書紀』『古事記』の記述には整合性があると思えます。崇神天皇から古墳時代が始まるのなら、3世紀半ばに大和王権によってある程度の範囲の統一国家大和(日本の始まり)が成立したと考えたいと思います。学校でもそう教えてきました。教科書の古墳時代もそうなっているしね。
ちなみに神武天皇の東征について若井先生の本はこんなふうに書いています。以下は要約です(P28~41)。
・九州から東征した(または九州に起源を持つ)という伝承を持つ氏族は複数あった。大王家の神武東征神話はその一
つである。九州勢力の列島東方への移住という大きな動向の一環としてとらえよう。
・大和政権といってもその初期には奈良盆地の小勢力だったのであって、神武東征といっても実際は建国というたいそ
うなものではなく、九州から来て在地勢力と戦い、奈良盆地の一角に住み着くことができたという程度のこと。
・天孫降臨神話も皇室がこの地上に君臨する由来を説いたものとされ、その形成について後世の歴史や儀礼と結びつけ
て論じられてきた(伝説形成論)。じっさいは天上の世界から神の子孫が地上に降臨し、地上の支配者になったとい
う話は、天皇家にかぎった特異なものではない。アメノヒボコ・ヤタガラス・ニギハヤヒ・アメノホヒノミコトなど
・そのこと自体に大王家の地上世界支配を正当化する機能はなかったと考えたほうがよい。
これはとても納得でした。
近代日本の建設過程でこれらの神話を壮大に動員せざるを得なかったために、そしてその功罪が甚だ大きかったために、かえって戦後の学問も冷静を欠いてしまったのではないかと思えます。若井先生は歴史学の常識(コモンセンス)に還れと仰っているのだと思いました。
最後に本の「前書き」から引用します(P4~5)。
「そして、『古事記』『日本書紀』にかわって、この時代を語る材料はおもに考古学の成果に求められてきた。その上に立って語られている古代史は、およそ『古事記』『日本書紀』が伝えるものとはかけ離れている。でも、はたしてそれでよいのだろうか。「記紀」はほんとうに信用できない資料なのだろうか。文献を駆使せずに、どれほど正確な政治過程を復元できるのだろうか。私はつねに疑問を抱いてきた。
しかし、記紀の信用性を議論しても、結局は水掛け論でむなしい思いをするだけである。ここでは記紀の伝えるところを分析して、いかなる古代史像が描けるかを試してみるべきで、議論はそれからでもいいではないかと思うにいたった」
「なお、「記紀」の応神天皇以前、つまり神武天皇から仲哀天皇までは、とくに信用できないものとされ、神代つまり神話の時代と、応神天皇以降の人間の時代に挟まれた半神半人の時代のように理解されてきた。私は、多少伝説的な要素はあっても、まぎれもなくこの時代は人代であって、十分に歴史的な事実を含んだ情報に満ちていると思い、そこから歴史を紡ぎあげたいと思う。「『神話』から読み直す古代天皇史」と題したのはそういうわけなのである」
とてもためになる本ですので皆様にお勧めします。とくに学校の先生方はぜひお読みください。
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