【注】いろいろあって?ちょっと間が空いてしまいました。それと井沢元彦『逆説の日本史28(大正時代)』が夏に出ていたのに気づきそれがなんと南北朝正閏論でした。このシリーズも好きだったので参考にしようと読んでいました。写真はP9の年表を拝借しました。表の明治44年(1911)が南北朝正閏論が政治化した年です。
さて文部省(喜田ら)による数年前からの歴史教科書編纂の動きに、師範学校の教師や漢学者(水戸学)や政治家らがこのときに動き出したのにはわけがあった。「大逆事件」に連座した幸徳秋水の発言(取調室)のうわさ。
「今の天子は南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪い取った北朝の天子(の子孫)ではないか」
記録がないのでこれが事実かどうかはわからない。刑法73条(大逆罪)で死刑になる幸徳の売り言葉に買い言葉としてありうる話かもしれない。徳富蘇峰は冤罪の可能性、石川啄木は冤罪としているが、「無政府主義」なんぞという恐ろしい思想と関わっている幸徳秋水は当時の為政者にとっては言語道断で「死刑だ!」となったのだろう。日本の司法はそういう段階にいた。
ここで「南北朝時代」とは何だったのかを復習しておきます。
それは後醍醐天皇という特異な天皇に始まる天下騒乱の時代だ。
朱子学という信仰にとらわれた観念の物語が、鎌倉幕府の衰退という局面で現実世界とスパークして始まった。幕府は覇者(暴力で治める)の権力だからこれを廃して、王者(徳で治める)である後醍醐天皇が政府を建てるのが正しい。かつての天皇(朝廷)の統治に戻そうというわけだ。
背景に持明院統VS大覚寺統という皇室の血統の分裂があった。両者が交代で皇位につけばよいとする幕府の調停を後醍醐天皇は「覇者の横暴」ととらえていた。ただ王者が天下を取るためには、戦いのプロである武士の力を借りなければできない。
そうして楠木正成・足利尊氏・新田義貞らが結集し、鎌倉幕府を倒して後醍醐天皇の政府ができる。
これを維新・明治のリーダーたちは「建武の中興」とよんだ。
古代天皇の統治権力が平安時代に藤原氏・平氏・源氏へと移りながら鎌倉幕府の世になった。天皇は「権威」を担当し、其の時代の実力者が「権力」を担当するという国体が成立した。日本的な立憲君主制の成立である。
それを再び「天皇親政」に戻したのが後醍醐天皇だった。
その後半世紀ほどで、再び足利・豊臣・徳川と覇者の統治に戻ったが、西洋列強の砲艦外交という外圧の下で、再度「(本来の)天皇親政」に戻ったのが明治新政府だった。実際は薩摩・長州の下級武士たちの政府だったわけだが、それでは権力の正統性がゆらぐので、あくまで明治天皇の親政だとして出発した。それが「王政復古」であり「神武創業に戻ろう」というスローガンだった。
つまり、古代の天皇親政が明治に復活するが、間違った武士の統治する時代にわずか半世紀だが手本を示した天皇親政があった。それを「中興」という言葉で称えたことになる。
「建武の中興」という歴史用語で、ぼくの子供の頃(昭和30年代)は教科書にそう書いてあったと記憶している。いまは奪イデオロギー的な「建武の新政」となっている。
(つづく)
コメント