第一期・第二期ともに国定教科書「日本歴史」の執筆者は文部省の喜田貞吉、監修は三上参次帝国大学文学部助教授だった。今回はこの二人が「南北朝に軽重をつけない記述にしたのはなぜか」について書いてみたい。
国定の前の検定教科書の大半が「南朝正統論」で書かれていたことはすでに書いた。具体的にはこうだ。
・歴代数・年号は南朝のほうを使う。
・北朝は「天皇」とはよばない。
・足利尊氏側は「賊」「賊軍」と書く。
・楠木正成を「忠臣」として称揚する。
・正成、正行父子の「桜井の別れ」を重要なエピソードとして使う。
喜田貞吉は「文科省が編纂して官権をもって全国に使用を強制する教科書の場合、これではよくない」と考えた。
・児童の頭に北朝の天皇は「賊の天皇と映る」。
・『大日本史』は正閏は明らかにするが「賊」とは書かない。これに倣うとしても、閏位の北朝の皇統が皇位を継承して今日に至り、正位の南朝の皇胤は絶えているという史実をどうするのか。
いずれも喜田自身が少年時代に抱いた疑問だった。
また、こうも考えた。
・南北朝正閏の筆法で安徳天皇と後鳥羽天皇の並立を記述したらどうなるか。正位の君は安徳天皇、閏位の君は後鳥羽天皇となる。源氏が正位の君の軍を追い落として安徳天皇は海に沈んだ。結果として閏位の君に神器が帰せば、たちまち正位の君になるということでよいのだろうか。
安徳・後鳥羽問題を「露骨な暴力の勝利」として教えないために、喜田はこれを単なる「源平の争い」として書き天皇には触れないという方針を立てた。
そして、南北朝もこれにならって、「官軍」と「賊軍」の争いではなく、「宮方」と「武家方」という家臣間の争いとして記述して、皇室を圏外に置こうと考えた。
それは「学究的良心と、教育家としての立場との間に調和を求めた結果」だった。
ただし、官軍・賊軍の語は使わないとしても、南朝方は「忠臣」とし北朝方は足利尊氏以下を不義であるとした。憎むべきは尊氏までで、その上にまで及んではならぬ、とした。
また天皇の歴代表に関しては、宮内省の正式決定があるいまでは南北両朝に軽重はつけない。光厳天皇と後醍醐天皇はともに皇位にあったとするのが穏当であるとした。
三上参次はこう言っていた。
・歴代の天皇が、北朝の天皇も含めて、天皇とあがめておられたのを、文部省で「天皇ではない」としてしまうのは不敬な話ではないか。
・日清日露戦争における忠勇なる兵士たちも、楠木正成と足利尊氏の区別は教えられても、両行との正閏などはそれほど教えられていない。「正閏など知らなくても(児童に)尊皇愛国の実は挙げられるのである」。
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