地元の護国神社にお参りして、大東亜戦争の戦没者を追悼し、平和を祈念してきました。大宮公園です。式典の準備がされていて、街宣車が2台とまっていました。
でも今日のブログは生き残った人の話です。
上野で八百屋の丁稚奉公をしていた父は開戦を知ってすぐに海軍に志願した。農家の次男坊で高等小学校は出ていたらしい。いわゆる飯炊き兵になってすぐに外地へ。最初の海戦で船がやられてトラック島で修理の日を送り、そのまま内地へ帰投(横須賀?)となった。それでどういう経緯かわからないがその足で主計局に配置換えになりそのまま終戦まで船には乗らないですんだ。8月15日は群馬県の山で穴を掘っていた。山をくりぬいて飛行場をつくる計画だったらしい。そうやって生き残った。たぶん目端が利いて運もよかったのだろう。
終戦後のどさくさ話が、詐欺師ややくざや女事業家などが登場して面白いが今日の話題にはふさわしくないので省略します。
一旗揚げるつもりでしばらく右往左往したが結局ものにならず、故郷に帰って結婚。昭和23年に兄が生まれたがその年に肺炎で亡くし、翌年の初夏にぼくが生まれた。兄の小さな位牌はいまも両親と一緒だ。少しずつ経済も持ち直してぼくの方は生き延びることができた。翌年には朝鮮戦争の特需が来る。
昭和25年朝鮮戦争になってGHQの政令で警察予備隊がつくられた。朝鮮戦争で米軍が出かけて行ってしまい、空っぽになった日本の治安が怪しくなったからだった。共産党や第三国人がわが世の春と暴れていたこともあった。朝鮮戦争には日本の共産化計画も含まれていたらしい。
Wikipediaではこう書いてある。
「日本の平和と秩序を維持し、公共の福祉を保障するため、国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うものとして設けられた。その活動は警察の任務の範囲に限られるべきものであると定められていたが、実質的には対反乱作戦を遂行するための準軍事組織ないし軍隊であり、軽戦車や榴弾砲なども備えた重武装であった。組織としては総理府の機関であるが外局扱いとされ、警察とは独立して内閣総理大臣の指揮を受けた」
(たぶん)フーテンだった父はすぐにこれに飛びついた。おかげで父が家に帰るようになり母は喜んだ。翌年サンフランシスコ条約で「独立」。警察予備隊は保安隊を経て、昭和29年自衛隊に昇格した。父は習志野駐屯地に配属になった。そのときは27年生まれの妹がいた。ぼくの幼児の思い出はこの辺りから始まる。ただこれはこのころから写真があるからかもしれない。だだっ広い野原の中の一軒家でそこらじゅうに鶏糞が干してあり匂いが凄まじい家だった。井戸で水をくんでいた。
父はその後富士学校に移った。ずっと業務隊で飯炊き隊その他をやっていた。災害救援などで大活躍する部署ですね。自衛隊は小学校出でも幹部への道があったらしい。父はこの富士学校時代に猛勉強をして試験を受け、小倉かどこかの学校に入った。その後時間をかけて3尉(むかしの少尉です)になって大宮駐屯地に移った。富士学校時代は御殿場の自衛隊官舎で暮らしていた。保育園から4年生の終了まで。大宮には5年生から転校した。アパート暮らしで風呂もなかったので都会のサラリーマン家庭がうらやましかったなあ。大宮に出てきたせいで金持ちを恨む感情を知ってしまった。
大宮で、父はチビだったので「豆タンク」というあだ名だったと葬儀の来てくれた自衛隊の皆さんに教えてもらった。ひたすら働いて定年退職するときにやっと1尉(むかしの大尉)になった。
中学くらいから左傾化して父とはうまくいかなくなった。大学で全共闘騒動に加わり、いろいろあって行方不明になったり、その時は知らなかったが連絡を受けた父は京都までぼくを探しに来た。大学は中退して疑問を左翼もやめた。父への反抗が先か左傾が先かよくわからない、仕方のない時期だった。それからの20代は時間をかけて勉強して十数年たった。本を読むだけの勉強だったがそれがぼくの「大学」になった。
子供ができてなぜか教師になってしまい、いくつかの成り行きで、実家を建て増しして一緒に暮らし始めた。ぼくとしては歩み寄れたつもりだったが、しばらくして父はぼくを許していないことがわかった。それはそうだといまならわかる。亡くなる前の数か月ぼくはそのことで酷く狼狽していた。結局最後まで親不孝者で終わったのだが、そのほうがぼくに似合いだったといまなら思える。父には申し訳ないことばかりだった。
父は退職後むやみに勉強を始めた。老人大学とやらに通い、俳句の結社に入り、水彩画を描いた。
それがものすごい内容だったので心底驚いた。ほんとうは学問をやりたい人だったのだとわかった。もし常光村に援助する人がいれば中学大学にも進めた人だったのかもしれない。欲目だがそう思ったのを覚えている。
俳句は、みるみる上達してあちこちで賞をもらうようになった。何度か受賞句を盗み見てただ事ではなかったので、句集を出そうと言ったがなかなかウンと言わなかった。息子に出してもらうのはホントに嫌だったのだと思う。ガンが見つかってやっと折れて出すことになった。句集『踏青』。いまはこれが唯一の形見になった。
歩まねば老ゆるばかりや青き踏む もとじ
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父は平成19年11月9日、85歳で亡くなった。葬式の準備をしながら第一にやったのは大宮駐屯地への連絡だった。
勲章がもらえるはずだからやってくれというのが遺言だった。
その後.家に偉い将官がやってきて居間で重々しい儀式をやってから勲章をいただいた。
仏壇に供えがら、死んでからもらえるのか!と、大尉でもらえるのか?と、思ったことを覚えている。
内閣総理大臣福田康夫宣で「正七位に序する」とありました。
Wikipediaによれば。
「大宝元年(701年)、他の位階とともに大宝律令において初めて制定された。律令制において正七位は、さらに正七位上と正七位下の二階に分けられた。明治時代初期の太政官制においては、上下の別がなくされ、神祇官の権大史、太政官の権少史などの官職に相当する位階とされた。昭和21年(1946年)の生存者叙位停止まで、正七位は、文官では高等官6等(警視など)、武官では大尉(中隊長など)の初叙位階とされた。停止後は、故人のみを対象として、省庁の地方出先機関の課長級職員、警視の階級にあった警察官などが叙位されている。著名な正七位の叙位の例としては、十和田湖の開発に尽力した和井内貞行、東武東上線ときわ台駅で殉職した警視庁警部の宮本邦彦の叙位などがある」
知らなかった。俳句はよくわからないが父の句はとてもうまいと思う。
夏燕故なく父を憶う日ぞ もとじ
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