「御前会議」の授業のこと



日本史ランキング
クリックお願いします!別ウィンドウが開きます

むかし「天皇の国日本」がやっとわかり始めていたころのことです。自分なりの授業は少しずつつくり始めていましたがまだまだでした。春野小学校の2回目の6年生(1997・平成9)。授業にできないかなと、ポツダム宣言受諾を決めた御前会議について調べていました。重要なことを決める会議で意見が対立したことを覚えていたからです。政策選択発問という方法にピッタリはまるような気がしたのです。
そこで以下のことを知りました。
——————————————————————————————–

6日に広島に、9日に長崎に原爆が投下され、同日にソ連が満州国に侵略を始めました。
このソ連参戦を見て、10日午前零時に御前会議が開かれました。

参加者は鈴木貫太郎(42代内閣総理大臣)、東郷重徳(外相)、平沼騏一郎(枢密院議長)、阿南惟幾(陸相)、米内光政(海相)、梅津美治郎(陸軍参謀総長)豊田副武(海軍令部総長)の7名。これに昭和天皇が臨席。

会議の主題はポツダム宣言の受諾(終戦)でした。参加者の意見は次の二つに分かれました。

A 「国体の護持」「保障占領」「日本自身による武装解除」「日本による戦争犯罪の処分」の4条件で受諾する
B 「国体護持」の1条件で受諾する

Aが陸相・参謀総長・軍令部総長の3名
Bが外相・海相・枢密院議長の3名

同数だったので、鈴木首相が議長としてどちらかを選択すれば決することも出来ましたが、それはしないで「同数になりましたので」と昭和天皇にご聖断をあおぎました。陸軍はすでに本土決戦で準備を始めており、この土壇場で国を終戦に向けて動かには多数決ではダメだ。陛下のご聖断によるしかないと考えたようです。

昭和天皇は「外務大臣の考えを採用する。理由は・・・」とのお考えを示され、これによって政府はポツダム宣言受諾に向けて動くことが決まりました。会議終了後すぐの10日午前3時に、閣議が開かれポツダム宣言の受諾が決まりました。政府は午前8時、交戦国にモールス信号で通知・海外向けラジオ放送(英語と日本語)・中立国スイスとスウェーデン政府に大使から文書を手交の3つでそれを伝えました。回答文は「天皇統治の大権を変更する要求が含まれていないという了解の下に(ポツダム宣言を)受諾する」というものでした。

その後米国の回答をめぐってごたごたが続き(内容は省略)、受諾が決定したのは、14日正午に昭和天皇の強い意志で開かれた2回目の御前会議でした。翌15日に終戦の玉音放送になりました。

11日米国務長官バーンズの回答が示されましたが、その解釈(ホントに国体が護持できるのか?)をめぐってもめてしまいます。その内容はここでは省略します。14日正午昭和天皇の強い意志によって再び御前会議が開かれ、天皇の再度のご聖断によってようやくポツダム宣言受諾と決し、翌15日の玉音放送に至りました。

——————————————————————————————–

1回目の御前会議の対立を授業にできないかと考えていたのですが、ここで立ち止まってしまいました。

Aの四条件派は無理筋なのですが、ドイツとは違って日本政府は健在ですから主張としては国際法にかなっています。がこの時点では、その実質は「戦争はまだ終わらせない(ポツダム宣言は受諾しない)」という立場だったと思います。本土決戦に持ち込んでゲリラ戦をやろうとしていました。
Bの一条件派は明確に「戦争を終わらせたい」という立場でした。しかし無条件ではなく「国体護持(天皇中心の国日本を守る)」が絶対条件でした。外相らには米軍は受け入れるだろうという感触があったようですが、もし連合国に拒否されれば、このグループも戦争を継続せざるを得ません。

つまり「国体護持」は絶対の条件だ。それが約束されなければ戦争は終わりにできない。会議の参加者全員がそう考えていたことが分かります。

文科省による小中のカリキュラムでは「戦時下の国民生活」という単元があり、昭和20年3月の東京大空襲と広島・長崎の原爆投下について、悲惨な被害の状況をかなり詳しく教えるようになっています。すべての教科書に入っています。

この学習を行うと子供たちはみな「早く戦争が終わらないかなあ」と強く思うようになります。
この子たちに「国体護持がなければ戦争は終われない」というリーダー全員の考えが理解できるだろうか? 
国民の命よりも「天皇中心の国」という「国のかたち」が重要なのだという考えを、この子たちはまったく理解できないだろう。そう考えざるを得ませんでした。それがわかるような授業をしてきていないからです。

そんなわけで、このときはやむなく話し合いの授業はやめ、教科書とは違うプリントをつくって終戦を教えて終りにしました。
6人のリーダーが最後の最後でやっぱり「国体護持だけはゆずれない」と考えていることが、「うん。わかる。日本人ならやっぱりそうなるよなあ」と実感として理解できなければ、御前会議の授業なんてできないなあ。そう考えたのです。

ある意味で「日本が好きになる!歴史の授業」のほんとうの始まりはここだったのかもしれません。

念のためにつけ加えますが、現代の子供たちに「国体護持がなければ本土決戦だ!一億玉砕やむなし」と、そういう考えを持たせたいのではありません。
このような追い詰められた国粋主義を否定するためにも、まずは彼らがそう考えた理由を実感として理解できることが必要なのです。歴史を学ぶと言うのはそういうことだと考えています。
そうでなければ、先人はバカか狂人として否定されるだけになってしまいます。実はそれが戦後80年の歴史教育でした。歴史を今の価値観で裁いたり、先人はバカか狂人だったと否定していたら、歴史から学ぶことは出来ません。

古代の国づくりを学び、中世の天皇の権威を学び、幕末維新と明治の危機を乗り越えて「天皇の国日本」が近代国家として建設される苦難の歴史を学び、いま国を守ろうとして不幸な戦争を戦っている先人に学ぶ。
そうやって歴史を学んだ子供たちが、終戦の決断を前に「2000年の天皇の国日本がオレたちの代で終わってもいいのだろうか?」と考えられるところまでは来てほしい。
その上で「イヤそれはダメだろう」と御前会議のメンバーに賛成する子がいるかもしれない。また「条件なんかつけないで今すぐ受諾したい」という子も、「天皇中心の国を守りたい」という考えには共感しているのが望ましい。そうでなければ、御前会議の授業にはならないと考えたのでした。

こういう考え方がやがて、①「天皇中心の国日本」の歴史を教える、②健康な国家観を持たせる、という二つの課題になっていきました。

長い時間が過ぎて、中学校にコンバートしてからですが、やっと上記のような「御前会議の授業」ができるようになっていました。
A(四条件)とB(一条件)を問う御前会議のリーダーになって考る授業です。ただし戦後日本人の都合で、
C(無条件で受諾)という選択肢も加えることにしました。ずいぶん迷いましたが結果は良かったと思います。

Aは少数でしたが、戦争に負けたくない・最後まで戦いたいという当時の軍人たちの思いでした。
Bは「日本は大昔から天皇中心の国だからそれを守りたい」「天皇なしの日本は日本じゃないから」「大事なことだからそれだけ条件に出して、これから交渉する」等と「国体護持」を日本が国家として譲れない条件なのだから、それはちゃんと要求しようと主張しました。
Cは「Bの意見はわかるし同じ気持ちだけど、いまはとにかく早く戦争を終わらせなきゃだめだ」「一般国民の死を終りにする。そのためにはまず受諾」という考えでした。「今すぐ攘夷は無理だったので開国してから攘夷をめざした明治に学ぼう」という意見がありました。そうか。敗戦と戦後の再出発はそれと同型だったのかと気づかされました。違うのは天皇の上にGHQが載ってしまったことでした。

古代の国づくり、明治の国づくり、昭和の戦争、としっかり学んでくれば子供たちは、「国体護持」だけはゆずれない、天皇がなければ日本じゃない、と考えた先人の思いを共感的に理解することができました。
そして結果、このとき一条件を主張したことによって、敗戦後も「天皇の国日本」(象徴天皇)が守られたことを中学生の子供たちと一緒に喜ぶことができました。

右往左往しながら長いことやって来て浦和実業学園中学校でのこの授業が一つの到達点だったかなと思います。
昨年の連続講座Season10ファイナルにこの年度の教え子が二人で参加してくれました。
一人は埼玉県で社会科の先生をやっています。

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

コメント

コメントする

目次