この調子で個々の授業の話をやっていくと、かえってわかりにくいようです。
多くの保守的な先生方には、大化改新の発問をそれだけみると何をやってるのかなあ?と見えるようです。
天皇中心の国か?実力者中心の国か?という問題だけ見たら、「日本は天皇中心の国にはちゃんと訳があるんだから、こういう大事なことは教師がはっきり教えたほうがいいんじゃないの?」「そうしないと、話し合いのための話し合いになって子供がわからないままおいていかれませんか」?という意見も聞かれます。たぶん「なぜ天皇だけが血筋で選ばれていくのか?」という子供たちにとって重要な問いの学習上の意義も伝わらないことでしょう。
それはカリキュラム全体(全授業の構成や発問のつながりと繰り返しなど)と、全授業を通して実際にどんな子供たちが育っているのかを(私の授業や追試実践によって)見ていただくしかありません。追試をしてみればすっとわかりますが、テキストを読んだだけではわからないかもしれません。ぼくの本を読まない方はまるでわからないでしょう。ですから、それは仕方がありません。
実は、このような議論は教育観や授業観にかかわっていて一筋縄ではいかない(教えるって何?わかるって何?)のですが。ここでは措いておきます。
とりあえず、話の筋を先に進めます。主な授業を追いながら簡略ですが説明をします。
◆古墳時代の授業で「天皇の国日本」が始まります。弥生時代のたくさんのクニがまとまっていきながら、大和朝廷による一つの国にまとまっていきます。当時は大王とよばれ教科書もそうなっていますが、これが「天皇の国日本」の始まりになります。考古学的には三輪山の麓の纏向遺跡です。
◆神話が物語る日本建国の授業で、神武建国(即位建都の詔)までのお話を学びます。これは教科書にはありません。ただ学習指導要領にはそう書いてあり、教科書に反映されていないだけです。
ここで前時の「日本統一」とそれ以前の神話的な「日本建国」をつなげておきます。
それは統一するずっと前(弥生時代)の一つのクニのお話です。つまり纏向に都を構えた代々の天皇から飛鳥時代の天武・持統までの天皇が、この建国神話を自らのご先祖様のお話として伝承し、8世紀に書物(日本書紀・古事記)にまとめられました。この血筋が今上陛下まで続いています。
◆聖徳太子の十七条の憲法の授業では、「日本は天皇の国」であることが初めて明記されたことを学びます(3条・7条・12条)。
また、隋との対等外交で大和の君主の称号が「天皇」になります。それまでは日本列島の君主の称号は「王(大王)」でした。東アジア世界では「王」とは「皇帝」の家臣であり、「皇」はシナの皇帝が専有できる文字でした。ここで、「天皇」は「皇」を持つ称号であり、北極星という字義があるので、大和の国は隋と形式的に対等になったとみなすことができる。こういう内容を学びます。
◆乙巳の変の発問と討論についてはすでに書きました。「A 実力者中心(蘇我氏)の国にする」と「B 天皇中心の国にする」です。この議論がのちの伏線になります。
大化の改新の授業で聖徳太子の国家構想が実際に動き出し、天皇中心の律令国家に向けて動き出したことを学びます。
◆天武天皇が大和の国号を「日本」とします。君主号「天皇」はこの時代から始まるというのが学界の定説ですが、この全授業では書紀に基づいて推古天皇(聖徳太子)の事績として教えます(上記)。こちらを支持する学者もありますのでこのままでいいでしょう。
◆近江令、飛鳥浄御原令、大宝律令の成立とその他の文明国の諸条件(官僚制・都城・国防軍など)を達成した日本は、天皇を君主とする古代律令国家として完成したことを学びます。また、そのアジア世界へのお披露目の大イベントが奈良の大仏の開眼法要だったという位置づけです。ここで白村江の戦いなどの苦難の道を振り返り、子供たちといっしょに「古代日本の完成!バンザイ!」をするのが恒例です。
◆平安時代のでは、唐との国交を断絶して日本独自の道に歩み始めました。
摂関政治の授業で、天皇が「権威」となり「権力はその時代の実力者」に移ります。
大化の改新では滅び去った実力者蘇我氏でしたが、300年後には大化改新を実行した中臣鎌足の子孫である藤原氏がシン実力者として登場し、統治権力を握るのです。
ここでかつては退けられた世界の常識(グローバルスタンダード)「その時代の実力者が権力を握る方式」がここで確立します(あのときのAの立場が生きてきます)。
ただし、このとき天皇は「権威」として国家の中心にいます。天「皇中心の国」という日本オリジナル方式は、権力が実力者に移っても揺らぐことはありませんでした。だから国名は今後もずっと変わらず、実力者に権力が移っているのに「革命」は起こらないのです。これが摂関政治の客観的な意義になります。
つまり、ここではじめて日本オリジナルとしての「天皇中心の国」(天皇は権威で時の実力者が権力を握る)が完成します。まさにこれは立憲君主ですね!ぼくたちが『大日本史』や後期水戸学以来の国体観(天皇親政)を採用しないのは以上の理由です。
(注)この段階を「日本的立憲制度の確立」ととらえる学説(倉山満)が出てきています。今谷明さんの「象徴天皇の起源」などです。じつはこのとらえ方は、坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』(1995)などから始まっていました。1995年に始まった自由主義史観研究会の考え方の基礎にこれらの坂本先生の業績がありました。最近読み返して実はここまで届いていたということに気づいて感動しました。
ここで、大化の改新の発問の意味がようやく明らかになります。
あのとき「A 実力者中心の国にする」という立場だった子供たちのある意味での正しさがここで明らかになるのです。現実的な統治の権力は「実力者」に移したほうが国家は発展していくということかもしれません。
その流れの中で、やがて武士が誕生します。
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