今振り返るといくつかの授業をつないで考え方に一貫性を持たせようとしていたことがわかります。
そのなかに、「天皇中心の国」を教えるという中心は同じなのですが、「いわゆる皇国史観」とは異なる考え方がありました。それぞれの意味を「いわゆる皇国史観」の歴史授業と対比しながら解説してみます。
表題の内容とはずれることもありますが、授業についての枝葉の考え方も含めてお話しするつもりでやっていきます。
神話から始めない。「縄文・弥生」から始める
・「いわゆる皇国史観」の歴史教科書は神話から始まります。皇祖アマテラスの神勅で「天皇の国は無窮である」ことが最初に教えられます。そこから「いまの皇国」につながるすべてが始まります。つまり日本は神代の昔から天皇の国でありそれは未来永劫続きますという不動のメッセージにで歴史学習が始まっています。紀元前660年の神武建国も史実として学ばれていきます。
・「縄文・弥生時代」から始めるというのは、ズバリ言うと「天皇の国になる以前の先祖の歩み」を考古学の成果に基づいて教えることになります。以前があるということは、遠い将来には以後もありうることを論理的に含みますので「いわゆる皇国史観」では許されなかったと思われます。
・授業をつくったときは上記のことはまだ考えていませんでした。単純に縄文・弥生を教えたい、教えないのはもったいないという気持ちです。縄文・弥生の先祖たちの心が現在につながっていると思えるからです。日本文化や日本人の信仰にはすべての自然にスピリットを感じる縄文・弥生のアニミズムが受け継がれています。
・縄文から弥生への転換には大陸からの外圧が関係しています。具体的にはかなり大量の大陸人の流入と彼らが持ってきた技術です。灌漑用水路のある大規模水田稲作・武器を含む金属器・漢字などです。また縄文日本列島にはなかった文化も入ってきました。王のいる大きな共同体(クニ)・武器を持って集団で殺し合う戦争などです。
・授業ではこの転換を「文明への飛躍」ととらえて次の主発問を設定しています。
あなたが縄文時代のリーダーだったら、大陸から渡ってきた新しい文化を受け入れますか?どちらかを選びましょう。A 受け入れて、変わっていこう! B 受け入れないで、これまでの暮らしを守ろう!
・この問題は16世紀いわゆる「大航海時代」以後になって、地球規模で狩猟採集民におそいかかりました。アフリカ大陸・インド・東南アジア・南北アメリカ大陸や島々、太平洋の島々、オセアニアなどです。これらの西洋人ははじめから攻撃的だったので、弥生の日本とは違って選択の余地なく西洋人の植民地になりました。
・弥生時代の日本の場合は違いました。大陸から渡来してきた人々と縄文の人々は異文化と共存し相互に影響を与え合って、ゆっくり混血していきました。考古学によってこの文明化の始まりはソフトランディングだったことがわかってきています。これは当時の渡来人たちの多くが揚子江沿岸かさらに南部の人々(漢民族ではない?)が中心だったからだと考えられます。日本列島と照葉樹林文化を共有する比較的穏やかな人々だったのです。この時代にゆっくり文明化していけたことは日本列島人の幸運でした。
・この発問について「無理がある」「架空の発問」という指摘もありましたが、いまでは歴史授業の発問として十分成立すると考えています。
21世紀の現在でもアマゾン流域やタイの奥地、アフリカなどで、頑固に狩猟採集生活とシャーマン的な儀礼で生きる集団が残っています。Tシャツを着ていたりするので都市文明との交流があることがわかるのですが、自分たちの古い生活文化や儀礼などに愛着を持っていることがわかります。
ですから、これは「文明との出会い・衝突」を考えるために十分成立する発問です。カリキュラムの最初に出てくる政策選択発問であり、子供たちの反応も良いので、ここで歴史授業の成功体験をする先生方が多いのです。
弥生時代からたくさんのクニができる。その中の一つが「大和朝廷」につながると考えます。
授業「弥生時代の王たち」と「邪馬台国の卑弥呼」では中華中心の東アジア国際秩序を教える。その外圧の中で大王(のちの天皇)の国(王権)が立ち上がっていく。弥生時代ではまだ大王の国はワンオブゼムだった。
・弥生時代後期(紀元前1世紀から3世紀)には複数の小さなクニがまとまっていき、各地に王のいる国が生まれてくる。日本列島のあちこちに王のいる国が分立していた。この時代のことは中国の史書(漢書・後漢書・魏志など)からわかっている。そうはいっても中国の記録なのでどこまで確かな史実かはわからない。日本書紀では弥生時代に当たる紀年が確定できないので現状ではやむをえない。
・「いわゆる皇国史観」では紀元前660年が神武建国と教えられ、もっぱら記紀に基づいて教科書が書かれた。だから、古代の中華中心の国際秩序が教えられることはない。日本ははじめから独立国であったかのように教えられている。あるいはそういうことは意識させないので、奴国が後漢の、(卑弥呼の)倭国が魏の、属国だったことは学習されない。
ぼくも中国の史書だけに頼って授業をするのはしゃらくせえという気分もあったが、そういう親分子分関係の世界秩序の中で国家形成をしていきながら、聖徳太子の対等外交でやっと自立できたという「物語」のほうが日本らしいと思っていた。そこで教科書に従うことにしたのです。
・「弥生のくらし」からいきなり「大和朝廷」に跳んでしまえば、漢書や魏志倭人伝は使わないですみます。日本書紀と考古学で学習は成立します。ただやってみるととてもこの流れの方が学習効果は高かったのです。
子供たちは中国の(日本の一部が)子分になるしかなかった当時の国際社会の現状を理解してとても悔しがりました。夷・倭・奴・邪・卑など「悪い字」ばかり使われて無念な気持ちが募っていきました。なので、聖徳太子の外交で日本が中国の子分をやめて自立し、皇帝の家来だった「王」から、皇帝と対等な「天皇」になったとき本当に嬉しそうでした。この感情の変化が「明治維新」「明治の国づくり」で同じように繰り返されます。
「くやしいなあ!」が続いた後に「やったあ!」となります。それが古代の国づくりと近代の国づくりが同型という認識の裏付けになるのです。
・「いわゆる皇国史観」の物語と「日本が好きになる!歴史授業」の物語の違いがわかっていただけたでしょうか?
どちらが誇りある日本国民を育てるでしょうか?
たぶん意見は分かれるでしょう。
歴史と教育は別だという認識は共有していますが、「いわゆる皇国史観」の時代には、皇室や天皇の神聖性が強く、不敬という厳しい壁もありました。久米邦武や津田左右吉の事件など学問の自由は制限されていきます。南北朝正閏論事件や天皇機関説事件もありました。国体や天皇にかかわることは政治化しやすかったのです。これらの評価についてはまた後日検討したいと思います。
・ちょっと脱線しました。
最後に日本の建国について。
3世紀、邪馬台国の卑弥呼は魏の皇帝から「倭王」に冊封され、金印をもらったとされています。「倭王」ですから日本列島の王と任命されたかたちです。
このときすでに日本が大和(奈良盆地)の王権によって統一されていたと考えるのが「邪馬台国大和説」です。それに対して、いやまだ各地にいくつかの王朝が分立していたと考えるのが「邪馬台国九州説」です。
教科書では「日本の統一」を4世紀の末の雄略天皇のころと考えているようです。
・「日本が好きになる!歴史授業」では、神武天皇の建国は弥生時代の「クニ」のひとつととらえたいと考えています。
神武天皇を神話的人物ではなく実在したと考えるならば、紀元前660年という数字は難しいと思います。
歴史学会では、考古学的な事実からすると神武は実在していないというのが定説になっています。神話的人物だから紀元前660年でもいいんじゃない?という意見と、「大昔として年代は定めないほうがいい」という意見があるようです。
また、もし実在と考えたいなら西暦紀元のあたりにした方がいいという考えもあります。古代暦春秋年説(1年を春と秋で2年に数えた)によれば日本書紀の古い時代の天皇の寿命を半分にできるのです。そうすれば考古学的な事実とも合致して、弥生時代に各地に王のいる国が成立していた時代になります。
紀元前660年というのは明治5年に政府が日本書紀にもとづいて決めた年代ですので、変更は可能だというわけです。
・後に古墳時代の所でも触れますが、「日本が好きになる!歴史授業」では、神武天皇の「(日本)建国」と3世紀末から5世紀にかけての「(日本)統一」を分けて教えます。そして、後者がいまにつながる統一日本の始まりと教えます。
日本を統一したのは大和朝廷ですから、さかのぼって大和朝廷の初代天皇=神武天皇の建国(当時は弥生時代のたくさんあった国の一つ)を日本建国と考えるようになりました。それが2月11日の「建国記念の日」です。という教え方をしています。
これらも、先生方で意見が分かれると思いますので、それぞれのお考えで進めてくださるのがよいと思います。「天皇中心の国日本」の歴史を教えるという核心が揺るがなければよいと考えます。
コメント