歴史の授業づくりを進めながら「日本は天皇の国なんだ」と自覚できるようになったのは島小学校で実践する直前くらいでした。遅すぎてごめんなさい。
具体的には「古代の国づくり」をめぐる教材研究がきっかけです。また、その前に「近代日本の国づくり」の授業づくりを通して「明治維新は天皇なしではありえない改革だった」「天皇制をここまで受け継ぎ守ってきた先人の知恵はすごい!」という認識がありました。
島小でやったときは不十分なものでしたが主観的にはそうした考えで進めていました。
その授業実践が『学校でまなびたい歴史』(2003・産経新聞社)になりました。現在は『新版 学校で学びたい歴史』(2021・青林堂)。が、本書はまったく「皇国史観」とは受け止められませんでした。取り上げた授業が少なかったからだと思います。
「天皇中心に一つにまとまってきた国」。これが日本だ。どうやって教えるか?が新しい課題となりました。
それまでは「近現代の歴史授業改革」ということで「東京裁判史観の克服」が正面の課題でした。それまで考えていなかった重大事に一歩踏み込むことができたのは、小学校で日本の通史を教えるという授業の現場(授業づくり)が教えてくれたことでした。
ぼくは団塊の世代なので、戦後教育のレジーム(平和と民主主義と国民主権)にとらわれている度合いはかなり酷いものでした。だからこの観点で自分を修正していくのは新鮮な発見の連続だったのを覚えています。
「天皇の国」というのは戦前の言い方なら「皇国」です。天皇の国史観。皇国史観。
が、当時はまだいわゆる「皇国史観」につなげてはあまり考えておらず、それにはっきり気づいたのは自由主義史観研究会での議論の場でした。何かのイベントが終わって主だった人が集まっていました。『学校でまなびたい歴史』(2003)を刊行してすぐの頃でした。
こんな提案をしました。
「そろそろ〈日本は天皇の国〉を研究会としても打ち出していきたいのですがどうでしょう?」
リーダーの皆さんの一致した意見は「それはまずい」「それは皇国史観だね」でした。
「完全に右翼扱いされてしまってるのに、いま皇国史観をうたったらアウトでしょう」というニュアンスだったと思います。賛成がゼロだったのはちょっと驚きましたが、たしかに教育界での皇国史観タブーは厳しいものでしたから、戦略的にはその通りだなあと、この提案は引き下げました。それで当分は一人でやっていくことにしました。
ぼくの授業づくりは「天皇中心の国」史観になっていましたが、議論で出された「戦前の皇国史観」とはちょっと違うなあと考えていました。「天皇の国」という根本のとらえ方は同じですが。ただ、その場にいるみなさんが「日本は天皇の国」と考えているのか、「日本は天皇の国ではない」と考えているのかはわかりませんでした。
ぼくの「天皇中心の国」という用語は、東京書籍の教科書にあった「聖徳太子の天皇中心の国づくり」から取りました。東京書籍は現在もこのタイトルを使っているそうです。
コメント