明治日本は長い歴史と伝統を引き継いで祖国が「天皇の国」であることを自覚した。それを新たな国づくり(近代日本建設)のための「国民統合の物語」としてきた。それは国民の元気の素になり、近代国家を建設していくための精神的なエンジンになった。
戦後日本は「天皇の国」という国民の物語(皇国史観)を全否定し、国民が忘れてくれるように願い、そのためのたくさんの方策を実施してきた。憲法や教育やメディアなど国民の情報環境のほとんどが「天皇の国」という国民の物語を消去するという目的のために動員されてきた。80年後の今、この政策はほぼ成功したといえるだろう。
ここで誰しもが「なぜだ?」と思うことだろう。
理由はただ一つ。
「天皇の国」という物語が日本人を侵略戦争に駆り立て世界に迷惑をかけた。いまこそ平和国家に生まれ変わろう。そのためには悪の原因を消去すればいい。国民のハートとノーミソから「天皇の国」という元気の素を消せばいいのだ。
この考え方は米軍(GHQ)によるものだ。国民はそうは思っていなかった。が、多くの国民は「あんな戦争はもうこりごりだ」と心底思っていたので、「爆弾が降らない、戦争に行かなくてもいい、腹いっぱい食える国」ならなんでもいいと考えたのだと思う。だからGHQの考え方が本当かウソかなどどうでもよかったのだろう。78年たって国民はほぼ完全に国民の物語を失った。それにともなって「国民という元気の素」も失われてしまったのだと思う。
上に「憲法や教育やメディアなど国民の情報環境のほとんどが「天皇の国」という国民の物語を消去するという目的のために動員されてきた」と書いたが、そのシンプルで極めて効果的な情報ツールが昭和23年(1948)の「国民の休日に関する法律(祝日法)」だったと思う。今回はこれについて整理してみたい。
まずはじめに近代日本の祝日の歴史を確認しておきます。
明治3年(1870)4月、明治政府はつぎのように休日を定めた。
大正月(1月1日)
小正月(1月15日)
3月3日(桃の節句・雛祭り)
5月5日(端午の節句)
7月7日(七夕の節句)
7月15日(中元・お盆)
8月朔日(八朔田実の節句・・・稲の実りを祝う)
9月9日(重陽の節句…菊の花で不老長寿を祈願する)
9月22日(天長節・・・明治天皇誕生日)
江戸時代は中国由来の五節句が式日として重んじられていたが、これをほぼ踏襲していたことがわかる。これは何も考えていない役人仕事に見えます。
明治5年(1872)に紀元前660年(伝神武天皇即位年辛酉)を紀元とする皇紀が定められた。このころから「国民の物語」のための新政府の明確な課題とされたことがわかる。これは西暦(キリスト紀元)への対抗ですね。そもそも我が国には原点から飴のように延びる時間という観念はなかった。十干十二支の暦は60年で循環しました。元号は天皇の時間であって限りがありました。皇紀は西暦の模倣でした。
明治6年(1873)明治3年の休日令が以下のように改定された。
新年節(1月1日)
元始祭(1月3日)
新年宴会(1月5日)
孝明天皇祭(1月30日)
紀元節(2月11日)
神武天皇祭(4月3日)
神嘗祭(9月→10月17日)
天長節(11月3日)
新嘗祭(11月23日)
明治11年(1878)に春季皇霊祭(3月春分の日)と秋季皇霊祭(9月秋分の日)が追加になり、明治日本の祝祭日が定まった。暦の上で「天皇の国日本」という物語が確立した。
このうち、新年節・新年宴会・紀元節・天長節は祝日とされ、新年宴会を除く3つが三大節と総称された。その他の七つは宮中祭祀に関係する祭日で七祭日と総称された。「祝祭日」という言葉はここからきている。
その後、大正元年・2年および昭和2年に天長節の変更や大正天皇祭・明治節が定められるなどの変更があった(勅令「休日に関する件」)
大東亜戦争敗戦後、アメリカ軍が日本を占領して日本の法制度および日本文化の改造が進められた。これは明確な国際法違反だったが、日本の指導者は「天皇制を守る」ためにやむを得ないと考えて抵抗しなかった。
昭和23年(1948)「国民の祝日に関する法律(祝日法)」で、戦前の祝祭日は、「国民主権と政教分離という立場」から以下のように変更された。この法律は日本政府が「天皇の国日本」という物語を廃棄したことを国民に周知することだった。国民の祝日は「天皇誕生日」を除いて天皇および宮中祭祀から切り離されることになった。
第一条にはこう書かれた。
「第一条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」
第二条には祝日が示された。まとめると以下のようになっていた。
元日(1月1日)
成人の日(1月15日)
春分の日(春分日)
天皇誕生日(4月29日)
憲法記念日(5月3日)
こどもの日(5月5日)
秋分の日(秋分日)
文化の日(11月3日)
勤労感謝の日(11月23日)
第一条の趣旨を読めばわかるように、戦争に負けた日本は「自由と平和を求めてやまない」国になった。そして国民の祝日は「伝統・天皇・宮中祭祀」を祝う日から「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために」祝い・感謝し・記念する日になった。そのために、以下の祝日が廃止された。
元始祭(1月3日)
新年宴会(1月5日)
紀元節(2月11日)
神武天皇祭(4月3日)
神嘗祭(10月17日)
大正天皇祭(12月25日)
それで上に示した9つの新たな祝日が定められたわけだが、そのうちの5つはすでにあった天皇と宮中祭祀に関わる祝日の改称だった。その他の3つは「元日」は「新年節」の改称、「成人の日」は明治3年の「小正月」の復活、「こどもの日」はこれも明治3年の「端午の節句」の復活だった。純然たる新たな祝日は「憲法記念日」だけだった。
改称になった5つの祝祭日をくわしく見てみよう。
・「春季皇霊祭」は「春分の日」になり「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日とされた。
・「天長節」は「天皇誕生日」になり「天皇の誕生日を祝う」日になった。
・「秋季皇霊祭」は「秋分の日」になり「祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ」日になった。
・「明治節」は「文化の日」になり、明治天皇誕生日を祝う日から「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日になった
・「新嘗祭」は「勤労感謝の日」になり、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」日になった。
これを見ると、結局国民の祝日は「日本の伝統」と「天皇・宮中祭祀」に求めるしかなかったことがわかる。「憲法記念日」みたいな祝日を取りそろえることはむりだったのだ。また、GHQへの抵抗という意志もあったかもしれない。
だから実際に「天皇の国日本」を生きてきた国民は、この祝日令が出たとき「なんだ名前を変えただけじゃないの」と受け止めていた。彼らには「天皇の国」という物語が生きていたからだ。
しかし、敗戦後に生まれた日本人は祝祭日を名前通り受け取り、それが「天皇の国日本」を表していたことを知らない。名前を変えたことで「天皇誕生日」以外は天皇とは関係のない話だと受け止めるようになった。それが継承されて今日に至った。名前を変えた「だけじゃない」はその通りだったが、半世紀の後にはその名称が、毎年国民に「日本は天皇とは関係のない国」という情報を伝え続けるツールになっていたのでした。
近代日本は「天皇の国」という物語をエンジンとしていくつもの驚異の達成を成し遂げてきた。西洋列強に支配されることをまぬかれ、富国強兵による独立を果たし、偉業を成し遂げた。そのために無理も重ねたと思う。明治天皇の崩御のあたりから少しずつ「天皇の国」の物語にも無理がかかってきて、しだいにオカルト的な要素を効かせたり、「排除の思想」を取り入れるようになったり、危機的な世界情勢もあいまって、少しずつ冷静さとリアリズムを欠いていったように思える。だから、これは単純に元に戻せばいいという話ではないと考えている。
「日本が好きになる!歴史授業」には失われた「国民の物語」を再建したいという思いがあった。それが国民の団結と元気の素だからだ。「再建」というのは、日本にはやはり「天皇の国」という物語が最もふさわしいと考えるからだ。
かつて「天皇の国」という国民の物語を形成したのは「皇国史観(国体論)」だった。たぶんこの言葉には強い抵抗感があるだろう。しかし「皇国史観」が再建のための欠かせない手がかりであることは確かである。現代にふさわしい「天皇の国史観(シン皇国史観)」を考えていきたいと思う。
(参考資料)
昭和二十三年法律第百七十八号
国民の祝日に関する法律
第一条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。
第二条 「国民の祝日」を次のように定める。
元日 一月一日 年のはじめを祝う。
成人の日 一月の第二月曜日 おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。
天皇誕生日 二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。
春分の日 春分日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。
昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
憲法記念日 五月三日 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。
みどりの日 五月四日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
海の日 七月の第三月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。
山の日 八月十一日 山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する。
敬老の日 九月の第三月曜日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。
秋分の日 秋分日 祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ。
スポーツの日 十月の第二月曜日 スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。
文化の日 十一月三日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。
勤労感謝の日 十一月二十三日 勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。
第三条 「国民の祝日」は、休日とする。
2 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。
3 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。
附 則
1 この法律は、公布の日からこれを施行する。
2 昭和二年勅令第二十五号は、これを廃止する。
附 則 (昭和四一年六月二五日法律第八六号) 抄
(施行期日)
1 この法律は、公布の日から施行する。
(建国記念の日となる日を定める政令の制定)
2 改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令は、この法律の公布の日から起算して六月以内に制定するものとする。
3 内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。
附 則 (昭和四八年四月一二日法律第一〇号) 抄
(施行期日)
1 この法律は、公布の日から施行する。
附 則 (昭和六〇年一二月二七日法律第一〇三号)
この法律は、公布の日から施行する。
附 則 (平成元年二月一七日法律第五号)
この法律は、公布の日から施行する。
附 則 (平成七年三月八日法律第二二号)
この法律は、平成八年一月一日から施行する。
附 則 (平成一〇年一〇月二一日法律第一四一号)
この法律は、平成十二年一月一日から施行する。
附 則 (平成一三年六月二二日法律第五九号) 抄
この法律は、平成十五年一月一日から施行する。
附 則 (平成一七年五月二〇日法律第四三号)
この法律は、平成十九年一月一日から施行する。
附 則 (平成二六年五月三〇日法律第四三号)
この法律は、平成二十八年一月一日から施行する。
附 則 (平成二九年六月一六日法律第六三号) 抄
(施行期日)
第一条 この法律は、公布の日から起算して三年を超えない範囲内において政令で定める日から施行する。ただし、第一条並びに次項、次条、附則第八条及び附則第九条の規定は公布の日から、附則第十条及び第十一条の規定はこの法律の施行の日の翌日から施行する。
2 前項の政令を定めるに当たっては、内閣総理大臣は、あらかじめ、皇室会議の意見を聴かなければならない。
(この法律の失効)
第二条 この法律は、この法律の施行の日以前に皇室典範第四条の規定による皇位の継承があったときは、その効力を失う。
附 則 (平成三〇年六月二〇日法律第五七号) 抄
(施行期日)
1 この法律は、平成三十二年一月一日から施行する。
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