小野寺拓也 日野大輔『検証 ナチスは良いこともしたのか?』(岩波ブックレット)を読んだ。
第二次世界大戦後の世界秩序はUN、戦勝国グループの利益に沿うように設計された。その骨格は枢軸国は悪という歴史観でにもとづいている。とりわけナチドイツはユダヤ人の迫害と虐殺に於いて「人道に反する罪」を犯したとされた。この罪状はニュルンベルク裁判のためにつくられた条例によるものであり、近代裁判に違反する「事後法」による裁判だった。しかしホロコースト(民族絶滅大虐殺)という例外的な悪であったために「罪刑法定主義」違反もやむなしという合意が得られ、ドイツ側もこれを受け入れたという経緯がある。
こうして司法的な常識には反するが、ヒトラーとドイツの悪は「特権的な悪」「絶対悪」になった。
それは議論の余地もない悪であり「どこまでが本当にあったことなのか?」など事実関係に疑問をさしはさむことすら許されない状況が生まれた。そういう意見には表現の自由はなく、事前に検閲され消されてもよいことになった。アウシュビッツなどのあまりにもむごたらしい有様に驚愕した世界はそれをよしとすることにした。
このとき、それまでの自由主義(リベラル)の最も重要だった原則が変わった。
「あなたと私は意見が違うが、あなたが意見を表明する自由を私は命がけで守る」とい思想・信条の自由と表現の自由の原理原則が終焉してしまった。
これがPC(ポリティカル・コレクトネス)の起源である。PCの対象がナチの犯罪に限定していればまだ問題はなかったが、なぜかその後「悪」の範囲はナチドイツ・ヒトラーという特権的悪の範囲を超えて拡張されていった。
いちばんいい例が「歴史修正主義」であり、第二次世界大戦に関わる戦勝国の歴史観に修正を迫る学説や研究はそれだけで否定されるべきだという考え方である。なぜか?歴史修正主義の意見はすなわちナチドイツ(のホロコースト)を肯定する立場だからというわけである。
もちろん「悪をはびこらせない」ことはたいへん重要であり大切なことだ。しかし、政治的な権力者やメディアという権力が、言論の自由を制限することにはきわめて大きなリスクがともなう。政治権力やメディアが悪とみなす意見・考え・思想が人類や国民にとって本当に悪なのか?という批判は避けられないからだ。これは誰でもわかることでしょう。人類や国民にとって大事な意見が検閲され削除され続けたらどうなるか?考えればわかります。
しかし、ナチの犯罪は、アメリカの二回の原爆投下や日本全土の都市空襲によるホロコーストと比べてどのくらい特権的な悪なのか?ソ連共産党の国民大虐殺や人権侵害と、中国共産党の国民大虐殺や少数民族人権侵害と比べてもらいたい。あなたが悪だと考えていること以外にも否定されるべき悪は歴史に散見されますよ。
私たちの歴史教育改革の主張もそういう意味で歴史修正主義になる。
GHQは日本のためにならない悪を(たぶん世界平和のために)削除した。憲法を削除して若いアメリカ兵に書かせた。国家に関わる神道を削除した。天皇は元首でも君主でもなくなった。神話を削除した。国史・地理・修身を削除した。その他日本の立場を有利にし戦勝国の立場を不利にする書籍を削除した。新聞・出版ほかすべてのメディアを検閲し削除した。などなど。
日本の戦争はすべて日本が悪いわけではなく、日本軍が世界標準から見てとりわけ残虐だった事実もない。あの戦争の責任は枢軸国だけでなく連合国も等しく負うべきであり、各国の軍隊はそれぞれに残虐だった。
しかし、日本の戦争は悪という前提のもとに、悪を生み出した天皇・神道・憲法・神話・国史・伝統文化等々が削除されたのだった。いまも大筋は変わっていない。
だから大人はともかく自我形成期の少年少女には自国に誇りを持てる歴史教育をやりましょうという提案をしてきた。30年前はまったく受け入れられなかったが、近年になってようやく話を聞いてくれる方が増えてきた。
本書の前書きによると、「ナチスは『良いこと』もした」という意見の人が増えているらしい。タブーがいろんなところでタブーではなくなり始めているのだろう。小野寺さんと田野さんはこの状況に危機感を抱いて本書を書いた。
しっかりした学者の仕事に学ぶことはとても重要です。
(つづく)
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