★日露戦争は偉大な祖国防衛戦争でした。有色人種の国日本が白人帝国主義列強の大国ロシアを破りました。白人が有色人種を支配するという世界史の大きな流れを一変させた戦争です。日本人は祖国の存亡をかけて一致団結してこの戦争を戦いました。これが国史における日露戦争の正しい姿です。児童生徒の正義感に正しく向き合って、歴史の真実を伝えましょう。
1 戦争の原因
◆資料「明治日本が一番恐れた国・ロシア」を読む。
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明治日本がいちば恐れた国・ロシア
ペリーが日本に来たころクリミア戦争が起きた。ロシアがトルコに進出しようとしたのをイギリス・フランスなどがゆるさなかった戦争だ。ロシアが南に領地を広げようとしたのは、冬でもこおらない港がほしかったからだった。
ロシアはこの戦争に負けて、西の海に出るのはあきらめた。そして東に出てきたのだ。日本海にウラジオストクというロシアの港があるが、それは「東を征服する」という意味だった。
ロシアは日本が日清戦争で手に入れた遼東半島を清に返させ、そこを自分のものにした。そして半島の先の旅順港を軍港にした。
さらに北清事変のあと満州に陸軍を配置し占領していた。朝鮮には日本派とロシア派がいて争っていたが、もうこうなっては強大なロシアの言うことをきくしかない。朝鮮は半島の南の港をロシアに与えようとしていた。
しかも、シベリア鉄道がウラジオストクまで延びてきた。いざというときに、大量の兵隊や武器や弾薬を運ぶためだった。
明治日本は、このロシアを心の底から恐れていた。多くの国民が苦しみにたえ、貧乏もがまんし、けんめいに努力して、ようやくここまできた国が、大風の前のロウソクの火のようにゆれていた。
そのとき、明治日本のリーダーたちの前に、祖国日本を救うための二つの道が提案された。
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│A【伊藤博文】超大国ロシアとは戦えない。ロシアと同盟を結んでこの大国と仲良くしよう。それこそが日本を救う道だ。│
│B【小村寿太郎】超大国イギリスと同盟を結び、その圧力で、ロシアの朝鮮支配を止めよう。ダメならば戦争を決意すべ きだ。
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◆地図でロシアの進出をおさえる。
遼東半島、満州、ウラジオストク、シベリア鉄道
◆板書:A:日露協商 B:日英同盟
伊藤と小村の写真を見せる。
『A:伊藤案「日露同盟」とB:小村寿太郎案「日英同盟」のどちらを
選ぶべきでしょうか?』
*意見分布をとり、理由を言わせる。
◆明治35(1902年) 日英同盟(日本とイギリス)
◆日本は世界一の国に支えてもらう。イギリスは日本にロシアを止めてもらうことでシナ大陸の利権を守れる。
2 開戦の決断
◆地図でロシアの進出をおさえる。
『ロシアがますます朝鮮半島に出てきた。このまま朝鮮を取られたら日本は滅びる。ロシア討つべしという声が国中に満ちた。しかし、リーダー達は迷っていた。』
◆ロシアと日本の国力比較・・・60:1の領土
①国家予算 ロシア(20億円) 日本(2億円)
②陸軍 ロシア(200万人) 日本(100万人)
③大砲 ロシア(2260門) 日本(636門)
④戦艦 ロシア(15隻) 日本(6隻)
『しかし、日本は戦うことを決断しました。すべての政党が賛成し、国民のほとんどがこれは祖国防衛戦争だと考えて立ち上がりました。もちろん新聞や雑誌には一部の反対意見もありました。伊藤は負けることも覚悟しその時は一兵隊になって出ると言いました』
◆板書:明治37年(1904)2月 日露戦争始まる
◆イギリスの掛け率は、80%ロシアの勝ちと予想した。
3 運命の戦い
◆陸の戦いも海の戦いも勝利する。
①陸の戦い
◆板書:ロシア25万人 VS 日本16万人
◆乃木大将の写真を見せ、旅順攻略線の意義を説明する。水師営の会見の武士道。
②海の戦い
◆東郷平八郎の写真、プリント「東郷平八郎と日本海海戦」を読む。
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お話「東郷平八郎大将と日本海海戦」(ちょっと長い!)
海軍元帥東郷平八郎は幕末、鹿児島の加治屋町に生まれました。西郷や大久保が生まれたのと同じ町です。
薩英戦争に十五歳で参戦してから、軍人の道を歩み、二十五歳で当時世界最強の海軍国イギリスに留学して学びました。慎重さと決断力をあわせもつ、たいへんな努力家でした。
ロシアとの戦いを前にして、山本権兵衛海軍大臣は、東郷平八郎を大日本帝国海軍・連合艦隊の司令長官に任命しました。出世の順序からすると、まだまだ東郷の出番ではなかったのですが、その理由を聞かれた山本は「運の強い男だから」と答えたそうです。
こうして、東郷司令長官は、イギリスがつくった最新の戦艦三笠に乗りこみ、連合艦隊の指揮をとることになりました。
日本が大陸で戦うには、日本海と黄海が安全であることが絶対の条件でした。なぜなら、兵士も弾薬も食料も、船で運ぶしかないからです。しかし、その輸送船が、ロシアの東洋艦隊によって十三せきも沈められていました。ロシアの軍艦は船を沈めるとすぐに、旅順港やウラジオストク港に逃げ込んでしまいます。
海軍はまず陸軍の補給を確保するために、旅順港閉鎖作戦を行いました。港の出入り口に古い船を沈めて、ロシアの東洋艦隊が港から出て来られないようにするためでした。しかし、これは完全な成功とはいえず、彼らは港内に身を潜めて安全を確保しつつ、いざとなればいつでも日本海に出てくる態勢をとっていました。
そんなとき、「ロシアのバルチック艦隊が日本に向けて出発した」という情報が入ったのです。 バルチック艦隊が来ては、戦艦の数が十五対六になり、どうやっても日本に勝ち目はありません。東郷平八郎は、バルチック艦隊がやってくる前に、ロシアの東洋艦隊をつぶすしかないと考えました。それができれば、戦艦の数で八対六の戦いに持ち込めます。
旅順港の東洋艦隊は、バルチック艦隊が到着するまで出てこないでしょう。そこで日本は、この旅順港を陸から攻撃することにしました。旅順港を囲む山の上にはロシアの近代的な要塞がならび、大きな大砲や機関銃(新兵器)がいくつもありました。山の下から何度攻め上っても、丸見えの日本軍は全部撃たれてしまいます。この二〇三高地の戦いはまことにむごたらしいありさまになりました。しかし、これに勝たなければ海はロシアのものになり、大陸にいる日本軍は補給ができずに全滅してしまうでしょう。そうなってはもう日本はほろびるしかありません。決死の突撃をくりかえし、日本軍はとうとうこの戦いに勝利しました。山の上からは港が丸見えでした。占領したロシアの大砲が港に向けて火をふきました。こうして、旅順港のロシア東洋艦隊はすべて沈んだのです。しかし、この戦いで日本軍六万人もが戦死してしまいました。
東郷は陸軍の働きに心から感謝し、バルチック艦隊は必ず沈めると心にちかいました。
そこで東郷は、大砲の命中率を上げるためにもうれつな訓練を続けさせました。その訓練で、当時3%といわれた命中率を倍以上に高めたそうです。それは世界の海軍の常識をはるかにこえるものでした。
また大砲の一斉撃ちという新戦術も訓練しました。それまでの海戦では、それぞれの戦艦の大砲は、その船の艦長の指揮で撃っていました。しかし、東郷は最新式の戦艦に装備されていた無線で連絡でして、全艦が一斉に撃つという方法をあみだしました。まず一発撃って敵艦の位置をつかみ、それを無線ですべての戦艦に指示して、一斉にねらいを定めて撃つのです。一点集中攻撃です。
この一斉撃ちを生かしたのがT字戦法という作戦でした。それまでの世界の海戦は艦隊がすれちがいながら戦うのがふつうでした。しかし、T字戦法とは大砲のとどく距離ぎりぎりのところで、ターンして敵の艦隊の前を横切りながら攻撃するのです。しかし、それはたいへん危険な作戦でした。なぜなら、敵の目の前で大きくターンするとき、敵は大砲を撃ってきますが、こちらはねらいを定めることができず、撃つことができないからです。またターンした後は、敵に腹を見せるかたちになるので、敵にとっては的が大きくなるわけです。しかし東郷は危険をわかったうえで、当たり前の戦術では大きな力の差はうちやぶれないと考えたのです。
ではT字戦法のねらいは何でしょうか。それは、前に書いた一斉撃ちをやり、先頭の敵艦一点に集中砲撃して、確実にそして順番に沈めていくことなのです。まさにいちかばちかの挑戦でした。東郷平八郎は、この一斉ターンを何度も何度も訓練させながら、バルチック艦隊の到着を待ちました。
日英同盟のおかげで、アジアやアフリカに植民地を持つイギリスからは、「○月○日、アフリカの○○港を出た」など次々と情報が入り、いつごろ日本海に着くかは予想することができました。しかし、バルチック艦隊はマラッカ海峡を出てから行方がわからなくなってしまったのです。
対馬海峡を来るのか、津軽海峡を来るのか、それが問題です。もし取り逃がして、ウラジオストクに入られたら、日本海はまた危険な海になってしまいます。やってくるところをとらえて、大海戦をやり、一挙に決着をつけるしかないのです。そうしなければ、大陸の日本軍は補給がとだえてしまいます。
まず敵を見つけること。しかも、この海戦に完ぺきに勝利すること。明治日本のの運命を決するむずかしい二つの仕事が、東郷司令長官に与えられた使命でした。
一九〇五年(明治三八年)五月二十五日。すべての艦長が三笠に集められました。 もう対馬で待ち続けるのは限界でした。「いくらなんでもおそすぎる」「バルチック艦隊は、太平洋を通って津軽海峡に向かったのだ」こうして長い作戦会議は終わりました。しかし、東郷は「津軽海峡に行け」という命令をその場では出しませんでした。一日だけ待つことにしたのです。命令書を封筒に入れて艦長たちに渡し、こう言いました。「この命令書は、今から二四時間後に読みなさい」
この一日待つという判断が的中しました。信濃丸という船から「敵艦見ゆ」の暗号が三笠にとどいたのは、まさにその翌日の二十七日の早朝のことだったからです。
「運のいい男」東郷平八郎は、ただちに全艦に出撃を命じました。
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◆丁字戦法を図示して説明する。
◆板書・・・明治37(1905)5月・日本海海戦:バルチック艦隊VS日本連合艦隊
(戦艦15→8) (戦艦6→4)
◆電文1「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動。これを撃滅せんとす。本日、天気晴朗なれども波高し」
◆Z旗を見せ、東郷大将は全艦・全将兵に檄を発す。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
■ビデオ「日本海海戦」のCG部分(沖の島から東郷さんの足跡まで)を見て、授業を終える。
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