★幕府が倒れてしまったが日本には天皇中心の国だったので、中国や韓国と異なり、すぐに天皇中心の政府ができて、国家の統一を守ることができたことに感動する。
★西郷隆盛と勝海舟が、敵味方の立場を超えて新しい「日本」のために決断したことに共感し、幕府も反幕府も「西洋に支配されない」という大目標は同じだったことを理解する。
1 王政復古
■大政奉還後の政治については2つの立場がありました。
A 徳川氏を新しい政府に参加させる(徳川慶喜は議長になれると考えていた)。
B 徳川氏は新しい政府からはずす(薩摩藩や長州藩はこう考えた。
■御所で会議が開かれ、岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛がこれを仕切って、次のことが決まった。
「辞官納地」・・・・徳川慶喜は朝廷の官位(内大臣)も最高であり、領地の規模も最大 だった。その官位と領地のすべてを天皇(新政府)に返させること。
■そこまでやるか!と怒った徳川方が暴発して、鳥羽伏見の戦いが起きた。
これが戊辰戦争(明治元年が戊申の年)の始まりで、明治2年まで続きます。
●板書:1986年(明治元年) 王政復古の詔→名実ともに天皇中心の国にもどす
『日本以外の国では、中心政府が倒されたら国は滅びていまいます。果てしない内乱が何年も続き新しい国が作られます。しかし日本は天皇中心で国で、幕府は政治を委任されていただけでした。だから幕府が倒れても明治天皇の下にすぐに新しい政府が作られ、日本という国は連続していくことができたのです。2000年続いた「天皇中心の国」の伝統のすばらしさですね』
2 西郷隆盛
■西郷隆盛の写真を貼り、プリント「西郷隆盛」を配り、読む。
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日本一好かれた男・西郷隆盛
みなさんは上野公園にある、ゆかたを着て、ぞうりをはき、犬をつれている銅像を知っていますか? あれが「西郷さん」と親しみをもって呼ばれている幕末の英雄・西郷隆盛です。西郷さんは身長一七八センチ・体重一〇八キロの大男でした。
西郷さんは薩摩藩の身分の低い武士の子として生まれました。
子供のころの名前を小吉と言います。 小吉は勉強熱心で、毎朝一番に先生のところへ来て教えをうけました。しかも、体もずばぬけて大きく運動神経も抜群でした。小吉の家は貧しく、兄弟も多かったのでいつも弟や妹のめんどうをみるやさしい性格でした。あらしがやってきて大雨が降ったとき、小吉は流れてくる板の上のコオロギを見つけてそれを助けてやりました。あらしの中でコオロギを助けるとはよほど、きもっ玉がすわっている子だったのでしょう。
西郷さんは、やがて実力を認められて薩摩藩のリーダーになっていきました。そして、他の志士たちと同じように「アジアの中で日本だけは西洋の植民地にしてはならない。西洋と対等につきあえる力と道徳をもったりっぱな国にしなくてはならない」と考るようになりました。
西郷さんのえらいところは、ただ戦争が強い国にして、西洋と対等になれればいいとは思わなかった点です。強いだけではなく、勇気・愛情・思いやりなどの道徳の面でもりっぱな、誇り高い国にしたいと考えていたのです。
さて、政権を朝廷に返して一大名にもどった将軍徳川慶喜でしたが、大政奉還の本当のねらいは、新しい朝廷の政府の中で最大の大名である徳川家を中心にすることでした。
しかし、西郷さんや大久保利通(おおくぼとしみち)は、それでは新しい国づくりはできないと考え、あくまで徳川家を新政府からはずそうとしたのです。
この方針の違いから、ついに戦いが起きることになったのです。西郷さんはその戦いの新政府側(官軍=朝廷の軍隊)のリーダーのなりました。
こうして、徳川VS反徳川(薩摩藩・長州藩など)との戦いが始まりました。
もしこの戦争が本格的なものになれば、日本はまっぷたつに分かれて長い国内戦争が続くことになるでしょう。どちらが勝つのかまったくわかりません。
このころ、西郷さんのもとにある情報が入りました。
西洋の国・フランスが「幕府の味方をしよう」と話をもちかけているというのです。その内容は、①六〇〇〇〇〇〇ドルの軍資金を貸す ②戦艦七せき、弾薬。大量の兵器を送る、などです。これはたいへんです。
西郷は考えました。われわれには、薩英戦争で仲よくなったイギリスがいるが。さて、どうすべきだろうか?
【A】 イギリスの救援を頼む 【B】 頼まない
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みなさんが西郷さんだったらどうしますか?
A:イギリスの応援をたのむ。 B:たのまない *人数分布をとり、意見を言わせる。
■答えは、あとで。
3 勝海舟
■勝海舟の写真を貼り、プリント「勝海舟」を配り、読む。
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幕府側の最も優れたリーダー 勝海舟
勝海舟は、徳川幕府の下級武士の家に生まれました。子供時代は暴れん坊で、よくけんかをしていたようです。
青年時代から剣術の修行と座禅(ざぜん)の修行にはげみ、ものに動じない強い心をもつ剣術の達人になりました。しかし、殺すことを好まず、暗殺者にねらわれるようになっても、自分の剣をぬけないようにしばっていた時代があったそうです。 また、すすんで蘭学(西洋の学問)を学び、学問の面でも幕府にこの人ありと知られるようになります。二五歳の時です。どうしてもオランダ語の辞書が必要になりましたが十両もの大金がはらえる家ではありません。そこで、持っている人をさがして、その人が夜寝ている間だけ貸してもらい、五十七巻もの辞書を全部、しかも二回も写したそうです。一冊分を売って、貧しい家の家計のたしにしたのです。
勝海舟は、咸臨丸という船で、初めて太平洋を渡った日本人の一人です。
帰国して、幕府のえらい人に感想を求められたとき、「わが国とちがって、上に立つものはみなりこうでした」と答えた話は有名です。
ふつうならその場で切腹ですが、勝の実力はそれをさせませんでした。
また、反幕府の長州や薩摩の志士たちとも自由に交流し、坂本竜馬などたくさんの人物から先生として尊敬された人です。
さて、その勝海舟がいま江戸城で大討論会に出ています。
徳川家の未来を決める話し合いです。あっとうてきな多数派は、あくまで薩摩・長州軍と戦うべきだという考えでした。官軍とはいえ、明治天皇はまだ十七才の少年だ。大久保や西郷にだまされているだけだ。
フランス軍の応援があれば、兵の数も幕府側の方が多いのだから、関東で戦えば負けることはない。薩摩や長州をほろぼして「天皇中心の国」をわれわれ元幕府の武士たちで作ろうというわけです。
ところが、勝海舟は、なんと、こんな意見を主張しました。
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│ われわれが、まずやるべきなのは、 │
│ フランスの応援をきっぱりとことわることだ! │
└───────────────────────┘
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勝海舟は、なぜフランスの応援をきっぱりと断れと言ったのでしょうか?
ノートに書きなさい。
*書いたものを発表させる。(坂本龍馬の授業「国内で戦ってはならない」を生かした児童をとくにほめる)
●ここで、1の答え(B)を教える。
4 江戸城無血開城と新しい首都東京
■勝は、徳川慶喜を江戸城から出し上野の寛永寺というお寺で謹慎させた。そして、敵の大将西郷隆盛と面会した。官軍が江戸総攻撃を決めた日の、3日前だった。
■こうして、
*徳川慶喜は江戸と江戸城を新政府に渡す。
*徳川家は今の静岡県の小さな藩にひきこむが、殺したり刑罰を与えたりはしない、
などが決まり、江戸は火の海になることをまぬかれた。
《エピソード》
勝「西郷は、おれを上座に座らせ、礼儀正しかった。勝者が敗者をむかえるおごり高ぶっ たところがなく、攻撃を自分の責任で中止すると約束した。西郷でなければ無理だっ ただろう」
■勝も、西郷も、次の目的は同じだった。
①日本が西洋の植民地にされない強い国になる。
②天皇中心の立派な国になる。
それを誰がやるべきかと考えたとき、徳川慶喜は国のために勝海舟の言うことを聞いたのだった。
板書:1868年4月:江戸城無血開城。
1869年3月 明治天皇が京都御所から江戸城(皇居ですね)にうつる。
江戸は東京になり、明治政府ができた。
■奥羽列藩同盟ができ、東北諸藩は最後まで官軍と戦った。会津藩の白虎隊の話は教えたい。戦争は明治2年(1869年5月)まで続き、函館の五稜郭の戦いで終わった。
この箱館戦争で、新撰組の土方歳三が戦死している。
女子にはけっこう土方ファンがいるので、話してやると喜びます。
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