今朝はなんだか木や森じゃなく空が気になって白い雲なんかを見て歩いていました。木や森が好きなのでふだんは緑っぽいところに目が行っていますが、今朝は青と白でした。心もなんだか青と白になって帰ってきました。
散歩中の脳内妄想を書き始めてしばらくたつけれど、これは「日本が好きになる!歴史授業」を広めるためには、かなりマイナスになるかもしれません。が人生は一度きり。間違っても反省したことのないぼくとしては、まあいいんじゃないの?
仮設実験授業の板倉聖宣さんは日本におけるスターリン批判の先駆者でした。氏のアリストテレス研究(学生時代)はスターリン批判のモチーフがあったそうです。
フルシチョフのスターリン批判は1956(昭和32年)です。たぶんぼくが小学校に入学した年です。板倉さんはその2年前にはスターリンに批判的だったようです。当時都学連の常任委員だったと書いています。
板倉さんの一つ下の世代の全学連執行部が、共産党に三下り半を突き付けて新左翼「共産主義者同盟」(ブント)を結成します。彼らがハンガリー動乱をヘンだと思った最初の世代で、反スターリン・反宮本顕治・暴力革命路線でした。共産党は六全教で宮本が権力を握り、徳田球一の火炎瓶・山村工作隊路線をつぶしました。このブントが60年安保闘争の主役になりました。
板倉さんは反スターリンでしたが、宮本顕治の平和革命路線には賛成だったのでしょうか?反徳田球一だったとも書いていますから宮本顕治派だったかもしれません。彼はいつまで共産党員だったのかなど具体的な話は一切出していないのでわからないんです。
ぼくを共産主義に導いた司書さんはこのブント系(あるいは革共同系?)だったのではないかと思います。中学から高校までずっと大宮市立図書館の常連でしたから、高校時代読んだ左翼系の本はハンガリー動乱ものなど、どれもこれも既成の共産党批判が中心だったからです。
ハンガリー動乱は市民の自由の問題でしたが、共産党は「資本主義の陰謀」という宣伝をしてハンガリー市民を戦車で押し潰しました。この虐殺と真面目に向き合ったのは日本では保守ではなく反共産党の新左翼でした。ぼくはこのハンガリー動乱ものにかなり本質的な影響をうけています。
おもしろいことに中原中也とか小林秀雄とか吉本隆明とか三浦つとむなども彼女から教わって熱中して読むようになります。『ゴッホの手紙』とか『実朝』とか『無常という事』などです。たぶんわかっちゃいなかったと思いますが、あの何というか切迫した文体のとりこになりました。吉本を読むようになったのは小林秀雄にどことなく通じるものがあったからでした。
いまにして思うと彼女はぼくの人生の最初の師匠でした。
受験勉強に乗り遅れたぼくは、中原中也が中退した立命館の史学科に入り、入学初日以来の全共闘運動にのめり込み、スリルと興奮と欲望の日々を送り、入学して1年半後には中也の真似をして中退していたのでした。
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