改訂版6「生麦事件と薩英戦争」



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★生麦事件と薩英戦争のあらましを知り、国の尊厳をかけてイギリスと戦った藩があったこと(武士がいたこと)に共感できるようにしよう。この戦争の結果、イギリスは幕府に見切りをつけて薩長に敬意を払った。薩長の志士の「攘夷」が、開国て富国強兵を進め実力をつけてから攘夷を実行する(大攘夷)に変わった。

1 生麦事件

■明治初期の生麦(横浜市鶴見区)の写真を示し問う。
生麦

┌──────────────────────────────────────┐
│  いまからおよそ150年前、ペリーの黒船が来てからおよそ10年後、通商条約を│
│ 結んで5年後のことだ。 │
│  この写真の場所である大事件が起きた。この道は当時の東海道。今の横浜市鶴見区│
│ にあたる。 │
│  どんな事件が起きたでしょう? │
└──────────────────────────────────────┘
★列指名で思いつきを言わせる。3列ほど指名し最後に評価する。思いつきも既習を生かせていること。

◆1862年八月の生麦事件の事実経過を話す(4人の英国人、1人死亡、2人負傷)。
 薩摩藩の大名行列が通りかかった。むこうから馬に乗った人が4人やってきた。横浜に住むイギリス人の貿易商とその友人がピクニックに出かけて帰るところだった。行列の薩摩の武士たちは4人がどんどん近づいてくるのをあやしんだ。かれらは騎乗したまま行列に乗り込んで来た。制止したが止まらなかった。あれよあれよという間に4人は殿様のかごに近づく。かご周りの武士は剣の達人である。いきなり先頭のイギリス人を斬った。即死だった。2人は斬られたが横浜に逃げ帰って一命を取り留めた。4人目は女性だった。彼女は斬られなかった。
 薩摩藩は行進し次の宿場で沙汰を待った。イギリスはただちに香港の東洋艦隊に連絡した。横浜にはイギリスの東洋艦隊だけでなく、仏・蘭・米の艦隊がそろった。戦争が始まるかもしれなかった。

■イギリスは幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(28万両)を要求した。幕府は西洋列強の海軍が終結した横浜を見て恐れおののき、イギリス側の言われるままに謝罪し賠償金を支払った。千両箱が280箱である。
■イギリスは薩摩藩にも、犯人のイギリス人による処刑と賠償金2万5000ポンドを要求した。7万両である。
┌──────────────────────────────────────┐
│  みなさんが薩摩のリーダーだったら、どうしますか? │
│ A:犯人をイギリス側に渡し、ばいしょう金を払う。 │
│ B:ばいしょう金は払うが犯人は渡さない。 │
│ C:両方とも拒否する。 │
└──────────────────────────────────────┘
★ノートに書かせる。人数分布をとり、意見を言わせる。

■大久保利通の写真を貼る。
 資料「大久保が藩主の代わりに書いた手紙」を読み上げて、リーダーの判断を知る。
┌────────────────────────────────────┐
│ 大名行列について、わが国法はきびしい。無礼な行為があれば、切り捨てるべき│
│ であると定めている。だから、薩摩の武士は国の法を守った者であり罪はない。│
│ 彼らは犯罪者ではなく、薩摩藩が賠償金を払う義務はない。逆に、イギリス人が│
│ 日本にいて日本の法を守らず、罪を犯して切られたのである。西洋人といえども│
│ 日本に来たのなら日本の法に従うべきなのはいうまでもない。その法は幕府が決│
│ めたものなのに、法を守らなかったイギリスに対してあやまり、賠償金を払うこ│
│ とこそまちがっているのである。 │
└────────────────────────────────────┘
*薩摩藩はCを選んだことになる。

2 薩英戦争

■イギリスは幕府と交渉しても、薩摩に言うことをきかせる力がもう幕府にはないことを知った。鹿児島湾に7隻軍艦(89門)で押し寄せ、24時間以内の回答をせまった。
■大久保は「薩摩藩は、攘夷をさけぶ長州藩と、幕府を応援して戦ってきた。その開国派の薩摩藩が、日本の法を守ったせいで、いまイギリスから攻撃を受けようとしている。なんという運命だろうか!」と言ったそうです。
*意見分布をとり、意見を言わせる。
■絵「薩英戦争」を見せ、戦ったことを告げる。
■資料:薩英戦争を読む。
*******************************

薩英戦争 一八六三年七月二日

世界の海を支配するイギリス艦隊は、世界最強の海軍であった。軍艦七せき、大砲の数は全部で八十九門だった。薩摩の蒸気船は三せきともイギリス艦隊にとらえられてしまった。
 大久保利通は、幕府と同じ開国派の薩摩が戦わなければならない運命の不思議を思った。しかも敵は世界一の海軍であり、こちらは日本の九州の南端の一つの藩に過ぎないのだ。しかし、もはやしりぞくわけにはいかなかった。
 城下の人々をひなんさせ、沿岸の十数カ所につくった砲台の準備もととのった。
 七月二日。おりから、台風が近づき、暴風雨の中で戦争が始まった。
大久保利通は、各砲台にイギリス艦隊への砲撃を命じた。
 薩摩藩の大砲は旧式だったが、ふだんからの訓練がものをいって、命中率が高かった。その一発はみごと敵の旗艦(きかん・・・指揮官の乗っている船)に命中して、イギリス軍艦の艦長と副艦長が戦死した。
 しかし、薩摩藩の砲台はつぎつぎと集中砲火を浴びた。イギリスの大砲は、最新式のアームストロング砲だった。鹿児島の城下町は炎につつまれ、砲台も次々と攻撃力を失っていった。
 戦争は三日間続き、指揮官を失ったイギリス艦隊は、鹿児島から出ていった。
結果はこうだった。
 イギリス軍の戦死十三名、負傷者五十名。
 薩摩軍の戦死十名、負傷者十一名。鹿児島城下の五百戸が焼かれ、蒸気船三せきを失い、薩摩藩の西洋式の工場もこわれてしまった。
 どちらが勝ち、どちらが負けたのか、わからない戦争だったが、大久保たち薩摩藩のサムライたちは、この戦争で西洋の真の実力を体験できたのである。
イギリスの新聞は次のように書いた。
「鹿児島は戦争のうまさは日本第一である。 薩摩藩の兵士の勇かんさは、これまで見たアジア人の中で、ぬきんでている。すみやかにもう一度攻撃しなければ、英国のはじとなろう。二人の指揮官を失ったことは大英帝国のはじだからだ。しかし再び攻撃するには、軍艦十二せき、千名の陸軍がいる。準備には八ヶ月が必要だが、その間に、薩摩もじゅうぶんに用意しているだろう」
       

3 薩英戦争の後始末

┌───────────────────────────────────┐
│  戦いの後、薩摩藩の意見は2つに分裂しました。 │
│  A:早く解決しよう派    B:あくまで戦う派 │
│  戦争の後始末を任された大久保利通の意見は、どちらだったでしょう? │
└───────────────────────────────────┘
*意見分布をとるだけで正解を教える。
■大久保の考えはAでした。
サムライとしての意地を見せたことに満足し、イギリスと手をうつことにした。大久保は、2万5000ポンド(7万両)を払うことにした。しかし、賠償金ではなく遺族養育料とした。しかも、それを幕府に払わせた。そのとき大久保がつかった手を教えよう。しぶる老中にこう言ったという。「もし7万両お貸し願えないのなら、やむをえない。やりたくはないがイギリス公使を斬って、自分も自殺する」幕府の老中はふるえあがって、金を出したという。
しかし、大久保は「犯人」とはかんがえていないので、斬った薩摩武士を渡すつもりはなかった。そして最後まで渡さなかった。

4 攘夷戦争を戦った長州と薩摩

┌───────────────────────────────────┐
│ 諸藩の中でいちばん力のあった長州藩と薩摩藩は西洋と戦った。 │
│ 戦った結果、両藩と西洋の関係はどうなったでしょうか? │
│ A:さらに悪くなった  B:変わらなかった  C;仲良くなった │
└───────────────────────────────────┘
*意見分布をとり、理由を言わせる。
■正解はC。
■イギリス人は、堂々と戦う誇り高い武士の精神を尊敬し、幕府よりも薩摩を応援するようになった。(軍艦を売ったり、鉄砲や弾薬を売るなど)。イギリスは、これからの日本は、幕府ではなく、長州藩と薩摩藩を中心にまとまっていくのではないかと考え、自分たちの将来の利益を考えていたのである。

■最後に重要なことを一つ。
それは「攘夷」という政策の意味が変わったことです。かつて攘夷は、鎖国を守って外人を追い払うことでした。
この2つの戦争によって、志士たちにとって真の攘夷とは何か。その意味が変わりました。それは、
┌──────────────────────────────────────┐
│ 開国して、西洋の文化技術を取り入れ、日本の実力を高め(新しい国作り)、 │
│ 西洋列強に負けない、彼らと対等につきあえる、強い国を作ること。 │
└──────────────────────────────────────┘
これを大攘夷といい、鎖国を守り外人を追い払うだけの攘夷は、小攘夷と言うようになります。
吉田松陰の攘夷は「大攘夷」だったことがわかります。


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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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