改訂版2「西洋はなぜ開国をせまるのか」



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西洋はなぜ日本に開国をせまるのか?
★西洋の世界侵略は15世紀の大航海時代から始まります。スペイン・ポルトガルとの対決はいわゆる「鎖国」で乗り切りました。こんどはその2回戦です。しかし、産業革命と市民革命で状況は一変していました。もうひといきで西洋列強は世界支配を完成するところまで来ていました。有色人種でまだ西洋の植民地になっていないのは日本とその周辺だけでした。彼らがやってきた意味を幕末の武士たちは知っていました。祖国の存亡がかかっていることを。
子供たちもそれを知らなければなりません。明治維新を理解するために。

1 清(中国)がイギリスに負けた
『前時に、ペリーがやってきて大砲で脅して開国を迫りました。早く結果を知りたいでしょうが、ここで、なぜ西洋列強(世界を支配する西洋の強国*白人)はわざわざ地球の裏側までやってきて、そんなむちゃくちゃなお節介をするのかを考えておきます。』
■アヘン戦争の絵を見せる。
アヘン戦争

┌──────────────────────────────────┐
│これはペリーの黒船が日本に来る10年前に起こったある事件の絵です。 │
│ 気づくことを発表しましょう。 │
└──────────────────────────────────┘
*発表させる。
・爆発、遠くに蒸気船、近くにジャンク船(中国人)、戦争、西洋と中国、
■板書:1840~1842 アヘン戦争(イギリス対清国)

『日本に大きなショックを与えたアヘン戦争とはどんな戦争だったのか、それを勉強しておきます』
■児童とやりとりしながら次のことを教える。
①戦争の原因・・・イギリスが清国に大量に麻薬(アヘン)を密輸したこと。
清国に麻薬中毒患者が増え、国内の銀がどんどんイギリスに出て行く。
②戦争の経過・・・愛国者林則徐はイギリス商人から、麻薬2万箱を没収して燃やした。
         イギリスは、軍艦16隻、兵隊14000人を送り、清国を攻撃した。
清国の皇帝は、戦うことをおそれて林則徐をクビにしたが、イギリス         は清国がこうさんするまで、攻撃をやめなかった。
③戦争の結果・・・南京条約:香港をとられた。5つの港を開き鎖国をやめさせられた。              賠償金。
フランスやアメリカも、中国に圧力をかけて同じような協約を結んだ。
■板書:清国は戦争に負けて開国した(イギリス・フランス・アメリカなど)。
    賠償金や領土をとられた。
『このように、そのころの西洋諸国の言う「貿易」は今私たちが考える、平和な商売のイメージとはだいぶ違いました。中国や日本は、そういう西洋人の危険を知っていたからこそ鎖国を続け平和な国を築いてきたのです。しかし、この時代になると、中国や日本を大砲でおどかしてでも、開国させ、無理矢理にでも貿易をさせようとしました。』
┌────────────────────────────────────┐
│ 西洋諸国は、どうしてこれほどまでに、世界中と貿易をしたがるようになって │
│ いたのでしょうか? │
└────────────────────────────────────┘
*意見を発表させる。
■板書をしながら、説明する。
■板書:産業革命・・・機械の発明→工場で大量生産
    「やすい原料を買って、大量につくり、世界中に売って、たくさんもうけて、国     を豊かにしたい!(ぜいたく病の始まり)」

2 西洋諸国はアジア・アメリカ・アフリカを征服してきた。
『5年生の時、日本は貿易をして豊かになってきたことを学びました』
┌───────────────────────────────────┐
│ 西洋諸国と貿易をした国は、アジアの国はみな豊かになったのだろうか? │
│ A 豊かになった   B 貧しくなった C 支配されてしまった │
└───────────────────────────────────┘
*人数分布をとり、意見を発表させる。
■資料「ヨーロッパ諸国のアジアの植民地」を見せ、説明文を読む。

********************************
19世紀の東南アジア
《注意》この地図は日清戦争後で、この頃台湾はまだ帰属不明です。

■植民地(しょくみんち)とは?
イギリス領(りょう)インドにはインド人が、フランス領インドシナにはベトナム人が、オランダ領東インドにはインドネシア人が、スペイン領フィリピンにはフィリピン人が住んでいた。国もあれば、王様もいた。
そこに西洋人が貿易をしに入ってきた。しかし、いろいろな理由で、さいごは国がのっとられてしまった(植民地)。インドはイギリスの植民地になったが、インド人がイギリス国民になったわけではない。ベトナム人がフランス国民になれたわけでもない。西洋人が大きな農場を経営し、原住民はそこで働くどれいのような立場になった。西洋人が支配者としてよい職業を独占して、原住民は貧しい職業にしかつけなくなった。西洋の文化は入ってきたが、それを学んだり、楽しんだりする立場にはなれなかった。他国に支配されるということは、長い伝統のある国を失い、歴史を失い、人としての誇(ほこ)りを失うことだった。
******************************

『植民地がどういう意味かわかりましたか? いま、東南アジアはすべて植民地になってしまいました。アジア諸国が西洋の植民地になったのは、いくつもの原因がありました』

■板書:貿易の競争に負けて植民地になる・・・・工業がない
    戦争に負けて植民地になる・・・・・・・強い武力がない
国がまとまっていない

3 まとめ:黒船が来たことの意味をたしかめる
■阿部正弘の写真を貼る。
『ペリーが来たとき、阿部正弘たちはアジアが支配されていることも、アヘン戦争のこともみな知っていました。しかし、250年の平和を築いてきた日本の生き方をすぐに変えることはとても難しいことでした。その阿部正弘は、ペリーがやってくる来年の春までになんとか結論を出さなければなりません。夜も寝られない日々が続きました。』
『前回の授業で、戦って鎖国を守ろうという人もいれば、開国して貿易をすすめようという人もいました。今日わかったことは、どちらの道をとってもも、西洋列強に支配される可能性があるということです。』
┌────────────────────────────────┐
│ もう一度ききます。みなさんが江戸時代の武士だったら、 │
│  阿部正弘にどんな助言をしますか? │
└────────────────────────────────┘
*発表させる。
『今から150年前、みなさんの5代前のご先祖は、まさに日本が滅びるかもしれないというたいへんな危機の時代を生きていました。次回は、二度目にやってきたペリーと阿部正弘の対決、そしてその後のお話です』


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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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