聖徳太子4「中国に追いつこう」



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聖徳太子4「中国に追いつこう」

●聖徳太子がつくった国家建設の土台をもとに、中国に対して実力でも追いつこうと努力を始めた日本について考える。また、聖徳太子の功績をまとめ死の悲しみを知る。

1 中国に追いつこう
【資料】遣隋使の船の写真と地図を黒板に貼る
復元遣唐使船

*以下、簡単に説明する。
『これは小野妹子が乗っていった船を復元したものです。小野妹子だけが乗っていったのではありません。若い留学生も行きました。これを遣隋使といいます』

『留学生には、国を愛する心を持ち、意志が強く、努力できる人、頭がよく、体が大きく、見た目が立派な人など、日本の代表として優秀な若者が選ばれました。学生たちは何年も掛けて、仏教、法律、政府の仕組み、政治の進め方など、隋の進んだ文化を勉強しました』

『留学生はどんな気持ちでこの船に乗ったと思いますか? 』

*発表させる。
「いっしょうけんめい勉強して国の役に立ちたい」など、エリートらしい志を発表する児童が多い。

『600年に始まった遣隋使は、およそ2年に1回くらい次々と送られました。ところが、612年の第6回で遣隋使は終わりました。どうしてでしょう?』

*挙手発言。
『大帝国隋がわずか40年で滅びてしまったからです。日本と違って中国は滅んだり滅ぼされたりを繰り返すところなんですね。隋を滅ぼして生まれた新しい帝国は「唐」という国でした。これは正真正銘の大帝国で350年くらい続きます』

『わが国はこの唐にも留学生を送ったでしょうか?』
A 送った   B 送るのをやめた

*挙手で意見分布をとる。2名ほど理由を言わせる。
『正解は送ったです。これを遣唐使といいます』

遣隋使(隋が滅びるまで、毎年派遣された)
遣唐使(その後300年近く、およそ10年に1回派遣された)

『このように、聖徳太子の死後もわが国は中国に留学生を送って学び続けました』

『私たちの先祖がこれほど一生懸命に努力して学び続けた目的は何なのでしょうか?』

*ノートに書かせてから、発表させる。

●外交的な対等関係だけでなく、政治や文化の実力でも中国に追いつきたいと願ったとまとめる。

『留学生たちは、国のために必死に勉強し、帰国してからは日本の国づくりのために大きな働きをしました。また、戦乱に明け暮れた中国や、国が滅びてしまった朝鮮から逃げてきたり、移り住んだ人々もいました。彼らの多くはその後日本人になりました。(ラモスや小錦などの例を挙げる)これを帰化人といいます。大和朝廷は、彼らを外国人だからと差別するようなことはなく、彼らの新技術や新知識を国づくりのためにすすんで活かしました』

2 まとめ「聖徳太子の国づくりの大方針」
『ここで、聖徳太子が考え、実行した国づくりの大方針をもう一度まとめておきましょう。』

【聖徳太子の国づくりの大方針】
1 外国の進んだ文化に学び、日本の伝統も守る
2 天皇中心に国が一つにまとまる
3 独立国として、大国中国と対等につきあえる国になる。

*これはノートに書かせる。
『この大方針は、この後大和朝廷にしっかりと受けつがれて古代日本が嘉南制していきます。さらにその後も、この3大方針は、日本の歴史のいくつかの場面で国づくりの方針として現れます。。そのときあらためて聖徳太子の偉大さがわかると思います』

3 法隆寺と太子の死
『では最後に、2つのお話をしておきます』
『17条の憲法の第2条は、仏教を信仰して国づくりを進めるでした。その後日本にもたくさんの寺が造られました。これは聖徳太子が建てたお寺です』
【資料】法隆寺の写真を見せる。
法隆寺

『何という寺ですか?』
*法隆寺

『この寺は、あることで世界一なのです。それは何ですか?』
*木造建築では世界一古い                            

『世界にはそのくらい古い建物はたくさん残っていますがすべて石でできた建物です。
千数百年もの間木でつくられた建物が燃えないで、腐らないでりっぱにのこっているのです。もちろんその時代に建てられたたくさんの寺はすべてなくなってしまいました。世界中の人々が、千年以上も木でできた建物が残っていることを不思議に思っています』

『どうして法隆寺は1000年以上も残ったでしょうか?』

*聖徳太子の偉大さを慕い、みんなが大切に守ってきた。いまも人々の信仰を集めていることを教える。
*聖徳太子はこの寺で人生の後半を本を書いて過ごしました。太子は政治家としてだけではなく、学者としても当時の超一流だったのです。
*以下を板書する。

日本の進歩のために=仏教の研究を進めた→経典の研究書
日本の伝統のために=日本の歴史を書いた→『天皇記』『国記』

『仏教研究は写本が残っていますが、残念なことに、太子が書いた日本の歴史は失われてしまいました。これらの本が燃えてしまう場面はまた授業で取り上げましょう』

『これは法隆寺の中心の仏様です』
*【資料】釈迦三尊像の写真
釈迦三尊

『この仏様の後ろ側に次のような言葉が彫られています』
*【プリント】を配り、釈迦三尊像光背銘と日本書紀の記述を読む。

〈釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)に書かれている言葉〉
「いま仏におたのみするために、太子と同じ大きさの仏像をおつくりしました。どうか私たちの願いを聞きとどけ、太子の病気を治してください。もし寿命だというのなら、どうか太子を仏の国にお召しください。」

『再現・日本史奈良⑤』(講談社)より

〈日本書紀』に書かれている言葉〉
「太子の死をすべての人がなげき悲しんだ。年老いたものは子を失ったかのように若い者は父母を失ったかのように、泣きむせぶ声がみちあふれた。田畑を耕すものは手に持った鋤(すき)をとめ、米をつく女はきねを動かそうともしない。口々に、『太陽も月もかがやきを失い、天地はくずれ落ちてしまったような気持ちです。この後、私たちは何を頼りにして生きていけばいいのでしょうか』とうったるありさまだった」

『実は、聖徳太子は国づくりのための3大方針を示して、それにもとづいて具体的な国づくりの仕事を始めたところで倒れてしまいました。このあとわが国はどうなるのでしょう。これで、聖徳太子の授業を終わります』

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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