《授業の意図》
超大国ロシアの野望を打ち砕こうとして、祖国防衛戦争を決断した先人の独立の気概に共感させたい。また、国民の団結と帝国陸海軍の奮戦によってこれに勝利し、白人列強による世界支配という世界史の流れを止めたことに感動させたい。
1 日露戦争開戦
国内世論はどうだったか?
大多数は戦争を支持した。また、明治日本は、ごくわずかな反対論も新聞にのせられる言論の自由があった。
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東京大学7博士の意見(東京朝日新聞 1903年6月24日)
ロシアは満洲を自国の勢力下にして、朝鮮で争おうとしている。満洲の支配についてロシアと決着をつけるのが先である。もし朝鮮で争い一歩でも負けたら、朝鮮も満州も失うことになる。そうなってからでは、日本の存立にが危うくなる。
社会主義者内村鑑三の意見(平民新聞 1904年3月13日)
戦争の結果は必ず人民の生活苦であり、重税の負担であり、道徳の退廃である。したがって、戦争を停止し、平和への復帰を早めることが必要である。
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■旅順港がロシア東洋艦隊の基地になり周囲の山々は世界最強のトーチカが築かれた。義和団事件後、満洲にいすわったロシア軍の力を背景に、ロシアは朝鮮にも手を出し始める。王朝の中に親ロシア派をつくり、朝鮮半島南端にも軍港をつくる動きを見せた。
シベリア鉄道が完成し、ロシア軍と軍需物資が続々と送られてくるようになった。
このまま手をこまねいていては、朝鮮がロシアの手に落ちるのは火を見るより明らかだった。そうなってからでは、日本がロシアに勝つことは永遠にあり得ない。
戦争を決断するなら今しかなかった。
1904(明治37)年 2月 日露戦争開戦
この戦争は、ロシアの侵略を防ぐための「祖国防衛戦争」でした。
以下、日露の兵力・海軍力比較表、地図を資料にして説明していく(詳細は略)
1 ロシア陸軍を満洲から追い出す。
1905年3月の奉天大海戦まで勝ち続けた。
2 ロシア海軍を黄海・日本海から追い出す。
旅順攻略戦(1904年8月~1905年1月)苦戦が続いたがバルチック艦隊が来る前に勝利して、旅順港にいたロシア艦隊は全滅した。
・乃木希典大将についても話す(令息の戦死、水市営の会見、明治天皇に殉死など)
日本海海戦(1905年5月27日)バルチック艦隊をほぼ全滅させる大勝利。
・東郷平八郎大将についても話す。(丁字作戦など)
・日本海海戦の実写+CG動画を見せる(5分ほど)
■開戦直前、伊藤博文はセオドア・ルーズベルト大統領に金子堅太郎を介して講和の仲介を依頼した。金子はルーズベルトとハーバード大学で同窓だった。日本海海戦の世界の海戦史に残る大勝利が、講和のチャンスだった。日本はすでに国家予算の8年分を使いきり、そのすべてが英国銀行からの借金だった。
大国ロシアはまだ余力はあったが、講和の提案に乗った。日本は胸をなで下ろす。日本の国力はもう限界だった。まさに薄氷を踏む勝利だった。
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