1 春休みをはさんだので復習から
・長い江戸時代の平和と豊かさが、西洋人によってやぶられようとしていた。
・西洋は三十年戦争と七年戦争、市民革命と産業革命の時代。
宗教戦争では、「敵は悪魔だから女子供老人まで皆殺しにすること」「なるべく苦しませて殺すこと」が正義だった。
戦争技術の発達し、スペイン・ポルトガルに替わって、英・蘭・仏・露などが世界を侵略し植民地を奪い合った。
アメリカ・カナダ・オーストラリアなどの現地人(黄色人)はほとんど皆殺しにされて、いまは西洋人(白人)の国になってしまったね。
・東南アジアの植民地と宗主国の小テストをやる。
インド・・・・・・(イギリス)
ビルマ・・・・・・(イギリス)
ベトナム・・・・・(フランス)
インドネシア・・・(オランダ)
フィリピン・・・・(スペインやがてアメリカ)
『西洋は市民革命を経て、人間は皆自由で平等だ」という基本的人権の思想を編み出したのに、どうして世界中を奴隷のように支配しているのですか?』
・白人だけが「人間」で、アジア人やアフリカ人(黄色人や黒人)は「人間じゃない」という思想だからです。
・そして、最後に残った東アジアにも西洋列強はやってきた。日本近海にも外国船が出没、千島や樺太には押しあせんがやってくる。長崎ではイギリス軍艦が乱暴狼藉。千島は一時ロシアに取られ、イギリスに頼んで取り返してもらうなど・・・。
・清ではアヘン戦争が起きた。あの大国清がイギリスの軍艦にこてんぱんいやられ、香港が取られた。
危うし日本!
ということでしたね。
2 黒船来航
嘉永6年(1853年)6月2日早朝、伊豆半島の海で漁をしていた漁民が突然の大波に驚いた。真っ黒い巨大な船が4隻が近づいてくる。2隻からはモクモクと煙が立っち、両脇の大きな水車が回転してしぶきを上げていた。
彼らは漁をとりやめて急いで下田の港に戻り役人に知らせた。
「これこれしかじか・・・黒船は江戸に向かっているようです」
役人はただちに馬にまたがって江戸城の老中に知らせようと街道をひた走った。
4隻の船は江戸湾「異国船打ち沈め線」の手前、浦賀の沖合で船を止めた。
新興国アメリカ海軍の東インド艦隊。司令官はペリー提督。
黒船は和戦のおよそ20倍の巨大さ、炸裂弾を発射できる大砲は全部で64門だった(江戸湾の砲台は全部で19門)。
当時幕府の老中首座は35歳の阿部正弘だった。
ペリーは将軍に大統領フィルモアの国書を渡したいと要求した。
幕府は拒否し、長崎でなら受け取ってもよいと言った。
何度か押し問答を繰り返すと、ペリーは包みを出して「これを将軍に渡せ」と言った。
*袱紗で包んだ運動会応援団の白旗を見せて問う。
『包みの品は何だったでしょうか?』
・鉄砲。
・何かの設計図
・なにか脅しになる物
など。
*白旗を見せる。
『なぜ白旗を見せたのでしょうか?』
・降参しろということ。
幕府の役人や老中たちは首をかしげた。
『日本では白旗というのはどんな意味だったでしょうか?』
・源氏の旗です。
その通りですね。紅白合戦の白にその意味が残っています。このとき初めて日本人は西洋諸国にとっての白旗の意味(降参のしるし)を知りました。
*白旗についていた手紙を読む。
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もし日本が、われわれアメリカと貿易しないというなら、われわれは、
あなたがた日本のまちがいを何がなんでも正してやらなければならない。
力づくでもそうするつもりなのでこの場合は戦争になるだろう。
日本は、自分たちがまちがっていないというのなら、われわれと戦いたまえ。
戦争になれば、私たちアメリカは必ず勝つ。
日本が負けるのはまちがいないので、きっとそのときは
「降伏(こうふく)するので話し合いをさせて下さい」
とわれわれに言ってきたくなるにちがいない。
そのときのために、この2本の白旗を渡しておくのである。
降伏したくなったらこの白旗を、われわれの見えるところに立てるがいい
白旗は、降伏(こうふく)するという印なのだ。
旗があがれば、われわれアメリカは、ただちに大砲による攻撃をやめてやろう。
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翌日、4隻の黒船は打ち沈め線を突破して江戸湾の奥(江戸城の真下)まで進み、いきなり空砲をぶっ放して脅した。
砲声は江戸の市街と城をゆるがした。
このように軍事力で脅して言うことを聞かせる野蛮な外交のことを「砲艦外交」といいます。
西洋の帝国主義とは、都合のいいときは「国際法」、都合が悪くなると「武力」という二本立て外交で、それは今も変わりません。
阿部正弘は国書を受け取り、返事は1年後にするとねばりました。
ペリーはそれに従って、日本から出て行きました。
フィルモアの国書には「日本は開国して通商せよ」と書いてありました。
*資料集で確認。
3 日米和親条約
阿部はただちに防衛を強化しました。江戸湾に多数の大砲(お台場)を設置し、各藩の防衛分担を決めるなど。
また、前例を破って、朝廷(天皇)や外様大名の意見も聞きました。
これは、阿部の尊王の思いであり、また日本の運命に関わるという思いでもあった。
しかし、これが結果的に幕府の権威を下げていった。
尊王思想は武士達の常識であり、幕府のサムライ達も同様だったので、この後朝廷の意志が政局を動かすようになっていきます。
しかし、結論が出ないまま時が動いて、ペリーは一年を待たず半年で戻ってきました。
翌年2月12日、ペリーの艦隊は最来航した。
こんどは約2倍、全7隻の大艦隊になってもどってきた。
そして、いきなり江戸湾深くまで入ってきて、空砲をぶっ放した。
阿部正弘はついに決断した。
ペリーを神奈川(横浜)に上陸させて条約を結ばせた。
嘉永7年(1854年)2月
日米和親条約締結
*資料集で内容を確認する。
・函館と下田の開港
・薪水食料などを売る。
・漂流民の保護など
*当時国際社会の主潮はグレートウォーとよばれる英露二超大国の抗争だった。10年前からロシアからも開国要求をつきつけられていた幕府は、まだ小国だったアメリカと先に結ぶことによって、いきなりグレートウォーに巻き込まれるのを避けたとも考えられる。
*同様の条約を、当時の大国、英・露・仏・蘭とも結んだ。
「アメリカとつきあって何でわしらとつきあわんのじゃい!?」
こうしてわが国は、およそ200年続いた鎖国体制を破って、開国に乗り出したと言えます。しかし、阿部正弘は最後の最後でも粘り腰を発揮しています。この条約は、フィルモアの要求にあった通商(貿易)については、継続審議として準備の時間を稼ごうとしたのです。
その後、阿部正弘は勝海舟や高島秋帆などを登用して海防の強化に努めました。また講武所(帝国陸軍の始め)や長崎海軍伝習所(帝国海軍の始め)、洋学所(東大の始め)などを創設し、西洋砲術の導入や大船建造の禁のゆるめるなど、国防の遅れを取り戻そうとがんばりました。
しかし、和親条約の3年後、安政4年(1857年)江戸で急死しました。享年39。
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