今日は父の七回忌でした。
形見になった句集『踏青』(文学の森)を読み直してみました。
あらためてさまざまな感慨がありました。
ちょっと長いけれど、「氷室」の主宰金子久美子さんが書いてくださった序文を紹介します。
読んでいただければ幸いです。
序
斎藤もとじさんとのご交友も振り返れば、小林康治先生が急逝なさって私が「氷室」を創刊したのに始まる。
私と同門の、もとじさんの師の待井でいろ氏が「氷室」に参加されて以来、交誼も深まり、もとじさんの人となりを知るとともに畏敬の念を持つのにあまり時間はかからなかった。
戦前の日本男子の持つ潔さが心地よいのである。
「氷室」参加以前にも俳歴はあるのだが、捨てて顧みられなかった。
初心の頃の句には佳句もあるものだから加えてみたら?と進言したのだが、「そう決めましたので」とこうなった。
それで巻初の句も堂々と、風格があるのである。
伊佐沼の闇をゆさぶる牛蛙
可からずの山門秋の風と入る
霜の夜や妻の部屋から紙の音
二月尽生きるつもりの新車買う
角切られ雄鹿ピエロのごと歩む
俳句は俳歴ばかりでなく、その来し方人生も強力に後押しをするので高齢の洒脱さが見える、その前向きの姿勢がよい。
水を出て鴨はおもたき身をゆする
月光や晩節てふ語胸底に
面とれば碁敵なりし里神楽
余生いま遊びざかりや福寿草
師の影の良寛に似て秋の浜
俳句のおかしみが身について、それを忌憚なく句に現しているのがまた魅力なのである。
鯉幟山見て育つ秩父の子
初燕村中の水動き出す
蛇穴に入りて吹かるる草ばかり
杜若葉写生子緑塗り重ね
蚊喰鳥飛んで夕日を落としけり
と落ち着き「花仰ぐ」「老鶯」の章では老齢の寂しさを背に見せながら、嘆き節の片鱗も見せないのは流石である。
古里のバスも来てをり初詣
夏燕故なく父を憶ふ日ぞ
送り火を焚くや知らぬ子来て屈む
爽やかや紙で結びし巫女の髪
水餅の眠れる甕に時移る
老鶯のときに省略して啼けり
仏みな素足に在す竹の秋
踏切や媼西瓜を地に置きぬ
「氷室」誌と歩める十年菊薫る
生きのびし兵も傘寿や開戦日
感情を露出させて溺れるといった女々しさのないところが、もとじさんの句の真骨頂なのである。それでいて詩情も情感も切れば溢れてくる。
梅林や腰掛けいすの温かし
来て見よや楤の芽はやも摘まれをり
夕端居補聴器欲しと思いをり
梅雨明けやあたふたと妻梅を干す
農耕馬消えて久しや木槿咲く
揚雲雀空にきざはしある如し
きりぎりす妻の生家の馬屋跡
寒鯉の黝き丸太のごと沈む
掌に丸薬数ふ余寒かな
歩まねば老いるばかりや青き踏む
野火止の水の音聞き春惜しむ
擂り粉木を使う妻ゐて魂祭
歩まねば老いるばかりや青き踏む もとじ
この気力溢るる「生きのびし傘寿の兵」の処女句集が上梓されるのもご子息の慫慂に始まると聞いた。
まっことにめでたく、私も誇りに思っている。おめでとう!
平成18年朱夏 金子久美子
コメント