「日本が好きになる!歴史授業」の話いろいろ⑬ 仮説と法則化の話



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前回書いたぼくが教師になった1980年代はいわゆるバブル経済期にあたります。日本から貧乏人がいなくなるという世界史的な奇跡が起きた時代でした。
70年代から80年代にかけての日本は何やっててもそこそこは食える時代でした。それは戦争に行って生きて帰った大正生まれの日本人が死に物狂いで働いた結果でした。そういう時代に20代~30代を送ったからこそ前回書いたようなぼくの長いモラトリアム的な生き方(そこそこ食えて少しの本を買える収入とたくさん本を読める時間がある仕事=実働時間が少なく休日が多い仕事)が可能になったわけです。大正生まれの両親にとってはまさにとんでもない親不孝者でしたけれど。教師になったことは、ぼくにとっては「蕩児の帰郷」(兄はいませんが)という意味合いがありました。

板倉さんはこう書いています。
「ものとその重さ」の授業を受けたことのあるクラスはすでに50を超えており、その中には都市部の学校のみならず、山村僻地の学校や理科の不得手な先生もまじっていますが、それらのどのクラスでも同じような授業の盛り上がりが再現されています。

「日本が好きになる!歴史授業」とそっくりですね。こちらはむしろ歴史が苦手な先生の方が多いくらいです。板倉さんも、それに学んだぼくも再現性をめざして授業をつくってきたからです。しかし、それをめざして授業をつくっても、同じ授業が誰にも再現できて誰にも同じ成果を出せるまでには千里の隔たりがあります。

板倉さんはこう書いています。
だれが、どこで、いつやっても、効果的な授業をつくり出せる授業プランというものがたしかに存在しているのです。このことは授業を科学的あるいは技術的に研究する可能性を、はっきり示しているといってよいでしょう。私たちはそれを仮説実験授業という形で一般化することを始めているのです」

「だれが、どこで、いつやっても効果的な授業」を板倉さんは科学教育の分野で探求して、それを「授業書」という形式で現実化しました。「授業書を読めば誰でも同じ授業ができる」というわけです。

ただ一般の教員にはこの分厚い授業書が最大のネックになっていました。

向山さんは「授業書」ではなく「授業書に近い形で、誰でも授業や技術を再現できるように書く」ことを始めました。そして、それを秘密結社のように閉じてしまう(授業書は板倉さんとその研究会が書く)のではなく、誰が書いてもよい「法則化論文(誰でも同じ授業を再現できるように書いた授業記録)」にしてしまいました。

1984年に向山が掲げた「教育技術の法則化運動」は以下の4つでした。
1 多くの技術から,自分の学級に適した方法を選択するのは教師自身である。(主体性の原則)
2 教育技術はさまざまである。出来るだけ多くの方法を取り上げる。(多様性の原則)
3 完成された教育技術は存在しない。常に検討・修正の対象とされる。(連続性の原則)
4 主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする。(実証性の原則)

ここで取り上げているのは、「4 主張は教材・発問・指示・留意点・結果を明示した記録を根拠とする」です。
向山さんは「誰でも同じ授業を再現できるのようにするために、どう書けばよいか?」という問いを現実化していきます。
ここでは詳しく書きませんが、発問と指示による授業を分節化して書く、指導行為の意図を書く、指導行為の結果(児童の反応など)をコンパクトに書く、等の原則を示しました。また授業の目標は書かないでよいとしました。伝統的な「目標」の文体があまりにも形式的で無意味なものが多かったからです。

さらに、それを書いた教師が法則化合宿に集まって発表し、評価されることによって、「法則化論文」の書き方の質が高まっていきました。そして「こう書けば誰でも再現できるだろう」という書き方の標準化が進められました。
法則化論文の評価の観点は二つです。
①誰でも同じ授業が再現できるように書かれているか?
②それは再現する価値のある授業か?

これこそ、仮説実験授業の「知識・思考は社会的に存在している。科学は社会的に存在し、社会的に発展する」という方法を教育運動に応用したものでした。

それ以前の教育運動は、「教師たちは斎藤喜博に学ぶが、斎藤喜博と同じ授業は出来ないし斎藤喜博にはなれない」という組み立てでした。この運動は「向山洋一とその他全国の優れた実践家に学び、彼らと同じ授業が再現できるようになろう」という組み立てでした。しかも、一人一人の教師たちにも自分の授業をつくり、それを法則化論文に書いて発表するチャンスを与えていました。それが全国の若い教師たちに希望を与えていました。

というわけで、あまり言う人はいませんが、ぼくは向山洋一は板倉聖宣の継承者だったと考えています。
そう考えて、この二人に学んできました。ぼくの歴史の授業もこの学びの延長線上になります。

ところで、今思うのは、板倉聖宜の1980年代の転換です。それは雑誌『楽しい授業』(仮説社)の創刊(1983.3)と、「仮説実験授業」を科学教育に閉じ込めておくのではなく、仮説的(?)な授業(授業書)を多様な教科・分野に広げていきました。そのときめざす授業像として掲げたのが「楽しい授業」でした。
この時期はまさに向山さんの法則化運動が立ち上がって燎原の火のように広がっていた時期に当たります。
ひそかに板倉→向山→板倉という黄金の影響関係があったのではないかなあと思っているのですが、どうでしょうか。単なる同時代性なのかもしれません。

『楽しい授業』という誌名を見たとき、西武のキャッチコピー「おいしい生活」(糸井重里1982)を思い浮かべたのを覚えています。「楽しいのがいちばんなのさ!」 まさに80年代の始まりでした。

なつかしかったので板倉さんが「楽しい授業」創刊号(1983.3.3)に寄せた論文を引用します。いま仮説社のサイトで100円で買いました。

〔この2本の記事は,仮説社発行の月刊誌『たのしい授業』の創刊号に掲載された記事です。発行は,1983年3月3日です〕

目次

いまなぜ「たのしい授業」か 一創刊の言葉一

 たのしいことを,たのしく

 私たちはいま,多くの人びとの知恵と経験と力とをよせ集めて,ここに月刊『たのしい授業』を創刊します。
 これまで「たのしい学校,わかる授業」という言葉はよく耳にしましたが,「たのしい授業」という言葉はあまりきかれませんでし た。「学校には友だちがいて,休み時間があって,たのしいことがあるけれど,授業はたのしいなんていうことがない」という考えがあるからでしょう。もちろん「授業はわかればたのしくなる」という考えもあります。しかし,子どもにはおもしろいとは思えないようなことを,やたらにわからせようと努力するあまり,授業がかえって重苦しいものになっていることも少なくないのです。
 人類が長い年月の間に築きあげてきた文化,それは人類が大きな感動をもって自分たちのものとしてきたものばかりです。そういう文化を子どもたちに伝えようという授業,それは本来たのしいものになるはずです。その授業がたのしいものになりえないとしたら,そのような教育はどこかまちがっているのです。
 子どもたちが自らの手で新しい社会と自然をつくっていく,そういう創造の力を育てようというのなら,なおさら,その授業はたのしいものでなければならないはずです。たのしい創造のよろこびを味わうことなしには創造性など発揮できないからです。だから私たちは,「今なによりも大切なのは,たのしい授業を実現するよう, あらゆる知恵と経験と力とをよせ集めることだ」と考えるのです。

 教育を根本的に問いなおす

 「わかる授業」でなく,「たのしい授業」を実現するためには,いまの子どもたちに「なぜ,何を教えようとするのか」というところまでたちかえって検討することが必要になってきます。だれかから与えられた教育内容や伝統的な教材をそのままにしていたので は,たのしい授業を実現することは困難なのです。
 改めて思いなおしてみると,「これまでの教育内容は,長い間のエリート中心教育の伝統の中で,基本的に差別選別のための道具として工夫されてきたものがしっかりと定着してしまった。だから,そのような授業はなかなかたのしいものとなりえないのだ」ともいえるのです。
 私たちはそのような教育を根本的に問いなおすためにも「たのしい授業の実現」という視点を大切にしたいのです。そしてこれまでの日本や世界の教育を支配してきた教育のワクをとりはらって,発想の転換をおこないたいと思います。自由に大胆に考え,教育の理想を高め,教材の質を向上させていきたいのです。

 だれにでも使える授業書を

 幸いなことに,私たちはすでに,授業の内容や考え方を根本的に改めると,これまで考えられもしなかったたのしい授業が実現しうることを見てとることができました。仮説実験授業の授業書やキミ子方式の絵の授業は,とくぺつ有能な教師でなくても,また法外な努力をしなくとも,ひと通りの勉強さえすれば,だれでもたのしい授業ができる道をひらいてきたのです。だから私たちは未来を明るく展望しうるのです。だからこそ私たちは「いまこそたのしい授業を」というのです。
 たのしい授業というものは,教師がいくら情熱を注いだからとい って実現しうるものではありません。その教材にたのしい授業を保証するような内容がないのに,熱意だけをふりかざすと,かえってその授業は重くるしいものとなり,耐えがたいものとなることもあります。教育には教育の,授業には授業の法則性があります。冷静にじっくりと,その授業の法則性を追求していってはじめてたのしい授業が実現できるようになるのです。だから私たちは,単なる思いつきでない,たくさんの人びとの授業実験の結果「これならだれでもたしかにたのしい授業ができるようになる」というような授業書や授業案を次々と掲載していきたいと思います。 

 告発をせずに理想をまもる

 少しでもたのしい授業が実現しうるメドがついたら,そういう授業を追求する努力はとてもたのしいものとなってきます。そして, 教師が余裕をもってたのしい授業を追求していくことができるならば,その追求の成果はいよいよ大きいものとなるでしょう。だから私たちは,この雑誌を,教師がその授業をたのしめるような,そういうたのしい雑誌にしていきたいと考えています。理想的な教育を追求しようとする教育運動には,得てして悲槍感がともないがちですが,そういう悲憤感のある雑誌にはしなくてすむと思います。
 現実が理想通りにならないと,とかく人は現実を告発し,自分自身をせめることで自分が高邁(こうまい)な理想をめがけて生きていることに満足感を味わおうとしたりしがちです。私たちは,そういう非生産的な告発をしないように努めるつもりです。

 自発的に書かれた原稿――創意と経験の集約

 私たちは,この新しい雑誌『たのしい授業』を,全国に散在する人びとの創意と経験がひろくとり入れられるようにしていきたいと思っています。
 ふつうの雑誌はほとんどみな,名のある人びとに編集部が依頼した原稿をもとにして作られています。そこで,人びとは編集者から依頼されなければ原稿など書くべきものでないと思っています。し かし,本人が積極的に書く気になって書いた原稿が一番創造的ですぐれているにきまっています。ですから創造的な学会の雑誌はみな,自由投稿制をとっているのです。もっとも,学会誌は少数の専門家が読み書きする雑誌で,私たちの雑誌とはちがいます。専門家でもない人は,自分の書こうとすることが本当に『たのしい授業』のような雑誌にのせるに値するかどうか,判断にまようのです。
 しかし私たちのまわりでは,そのような困難を克服する新しい動きが着実に歩をすすめています。たのしい授業を実現しえた人たち,そこに一歩をふみだした人びとは,その喜びを他の人びととわかちあいたくて,その記録や考えを自らガリ版印刷などにして他の人びととの交流をすすめているからです。 

 情報交換のわくを拡大――あなたも編集委員に

 たのしい授業を確実に実現できるようにするためには,着実な研究の積み重ねが必要とはいうものの,そういう研究はやはり多くの人びとのちょっとした思いつきや経験がもとになって前進するもの です。だから全国の人びとがまわりの人びとと自発的にすすめている情報の交換のわくを大きくひろげることが必要です。そこで私たちはガリ版刷りなどで一部の人びとに流布しているような記録,授業案などの中から,とくに一般性のあるたのしい記事を本誌にたくさんとりあげていきたいと思っています。 
 そこで読者の方々におねがいしたいのです。全国に散在する数多くのプリント類や話合いのなかで本誌にのせるに値すると思うもの をどしどし編集部に知らせてください。私たちはそういう情報・判断を定期的に編集部にとどけて下さる方々を編集委員として,本誌の編集をすすめたいと思います。最後的には全国からのそういう意見を編集実務委員会というところで調整して,本誌の発行をすることになります。

 できることから,ウソをつかずに

 なお,本誌の発行は毎月3日を予定しています。いま日本の書店で売られている雑誌は3月3日に出版のものはほとんどみな(3月号でなく)4月号として銘うたれています。日本でも昔はそんなことはなく,3月にでる雑誌は3月号にきまっていたのです。おかしなことになったものです。「みんながおかしくなると,それに合わせないとかえっておかしくみられる」そんなことがあってなかなかその悪弊がなくなりません。そこで本誌はその悪弊をたちきるためにも,3月3日発行のものを3月号と銘うつことにします。(学年は4月はじまりなので,創刊号の通し番号は第0号として,4月号を第1号とします)
 つまらぬことのようですが,自分たちの責任で改められることは 一つ一つ改めていく習慣をつけないと,世の中をかえることなどなかなかできないでしょう。みんながうそをついている中で,本誌だけ本当のことを書くと,思わぬ混乱がおきて,不利益なことが生ずるおそれもあります。御理解のほどおねがいします。

創刊発起人(順不同) 
板倉聖宣 山田正男 松本キミ子 小野洋一 牛尼文幸 三坂剛  西沢誠人 野村晶子 高木仁志 高橋晋 村上嘉一 田中秀家  斎藤隆 名倉弘 鈴木隆 中村重幸 渡辺慶二 浜岡文博 村上道子 加川勝人 西尾謙三 辻雅義 長坂正博 松尾政一 倉敷 仮説サークル(代表武田芳紀) 犬塚清和 中田好則 板倉正典  塩野広次 尾形邦子 四国弁証法研究会(代表新居信正) 島田繁 広島仮説サークル(城雄二) 〔以下次号掲載〕


たのしい授業」の思想

「わかる授業」と「たのしい授業」

  国立教育研究所・板倉聖宣

 「いまなぜたのしい授業なのか」ということについては本誌の創刊の言葉にひと通りのことが述べられています。そこで,ここでは私なりにもっと視野を拡げて,まず「たのしい授業」の必然性を歴史的・一般的に論じ,次に私自身の体験を中心に「わかる授業」と「たのしい授業」の関係について少し具体的に考えてみたいと思います。

 教育は「いいにきまっている」ものか

 明治以後の日本では,教育というのはひとつの希望,理想を意味していました。人々が教育について語るとき,それは一つの大きな可能性について語ることでした。だから,教育のワクを拡げ,ひとりでも多く,少しでも高い教育をうけさせることは無条件にいいことと考えられてきました。
 しかし,いまはどうでしょう。いまでも,昔ながらに「教育はすばらしいものにきまっている」という考えに固執している人たちがいます。しかし少し冷静にみれば,そのような考えがもはや時代おくれのものでしかないことは明らかでしょう。昔は教育について語るとき,人々はそこにたのしい夢をえがいていきいきと語るのが常だったのに,いまでは教育を語るのが重くるしいものになっているからです。
 昔は,多くの人たちが,少しでも上級の学校に行きたいとねがって,ずいぶん無理をして勉強にはげみました。そう,「苦学生」というのがたくさんいたのです。しかし,いまでは,「学校に行きたくないのに,しかたなしに行っている」という学生がとてもふえているというありさまです。そして教育というのはいまや子どもにとっても親にとっても,「すばらしいもの,いいにきまっているもの」ではなくなり,「いやいやながら受けるもの,しかたなしに与えるもの」になってしまったのです。
 なぜ,どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。いまでも「教育というのはいいにきまっている」と考える人びとは,いやがる子どもたちにも教育を強いることが必要だと考えています。そして「勉強というのは昔もいまも苦しいものにきまっている。だから強(し)いて勉(つと)めると書いて勉強というのだ。ただ昔の子どもにはその苦しさに耐えるねばりがあった。ところがいまの子どもは苦しさに耐えようとしない。あまったれているからだ。そういう子どもたちをきたえなおすことが教育を救う道だ」などと主張したりします。そういう人びとにとっては,「たのしい授業の実現をめざすことは,意気地のない子どもたちに迎合しようとするとんでもない運動だ」ということにもなります。
 どうしてそんなに大きく意見がわかれるのでしょうか。
 「科学というものはいいにきまっている」という考えはすでに大きくゆらいでいます。科学は戦争や公害を悲惨にするもとだとも見られるようになったからです。しかし,「教育というものはいいにきまっている」という考えはまだあまり公然と批判されてはおりません。そこで,人びとは昔ながらに「教育はいいものにきまっている」という考えにとらわれて,判断にまよい混乱におちいっているのだと思うのです。

 かつて,エリートのための勉強は確実に役に立った

 いったい,「教育はいいにきまっている.もの」という考えはどこからでてくるのでしょうか。教育が新しい可能性をきりひらくとき,教育はいいものであったでしょう。人びとが多くの犠牲をはらっても自ら教育をうけたいと欲するとき,教育はすばらしいものであったでしょう。しかし,教育をうける当人が「いやでいやでしょうがない」という教育を与えることがいいにきまっていることかどうか,考えなおす必要があるでしょう。こういうと「昔だって,勉強はたのしいからしたのじゃない。苦しさをのりこえて,がんばってやったのだ」という人もいることでしょう。そうです。その通りです。
 昔もいまと同じように,たのしい授業などほとんどありませんでした。いや,いまよりずっと少なかったといっていいでしょう。しかし,二つの点でいまと大きくちがっていました。
 ひとつは,昔は苦しい勉強でも耐えしのんで上級学校に進学すればそれなりに立身出世が保証され,それまでの苦しい生活からはいあがることができたということです。だから多くの苦学生は,少しでもエリートの座を確保するために自分に勉学を強いたのです。それにもうひとつは,そうやってエリートになれば,その勉強で身につけた知識は実際にかなり役立てることができたのです。
 たとえば,昔の師範学校は旧制中学校程度の学校で,そこではドイツ語はもちろん,英語もろくに教えられませんでした。それとくらべるといまの小中学校の先生の大部分は4年制大学の出身で英語はもちろんドイツ語やフランス語まで学んでいます。しかし,いまの小中学校の先生で英語やドイツ語で書かれた教育書を手にする人はどれだけいるでしょうか。英語の先生以外は皆無といっても差支えないでしょう。小中学校の先生方の中にも論文や著書を書いている人は少なくありませんが,そういう論文や著書の参考文献に英語やドイツ語で書かれたものは全くといっていいほど見当りません。しかし,昔,師範学校しか出なかった人びとの著書を見てごらんなさい。参考文献として英語やドイツ語の著書名がずらりとかかげられているのがふつうといってよいのです。
 たとえば,敗戦まで日本の理科教育界の中で指導的な発言をしてきた人たちは,たいてい師範学校しかでていない人たちでした。大学出は小学校教育にまで手を出すほどたくさんいなかったのです。それで,その師範学校出の人びとの中にも,自らドイツ語の本や英語の本を読んで世界の教育界の動きを読みとろうとしていた人たちが何人もいたのです。
 昔はエリートになるためにだけ自分をムチうって勉強したとしても,そのエリートになれれば,その勉強の結果身につけたもののかな‘りの部分は確実に役立ったのです。それはとくに日本が後進国で「少しでも早く外国の文化を全面的にうけいれる必要があったからだ」といってよいでしょう。おそらく明治以後の日本ほど,教育に,文化の輸入に,活気のみちみちていた国はなかったことでしょう。そういう社会では,エリートのための勉強は確実に役立ったのです。確実に役立つような知識を身につけることはたのしいことです。だから,一見苦しいだけのように見える勉強でも,昔と今とでは学生・生徒にとっての意味合いは全くちがっているのです。

 教育が普及すればするほど学習意欲は低下する

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 そこで明治以後の日本の教育運動は,「そういうエリートになれるような教育をすべての人びとがうけられるようにすべきだ」という考えを進歩的な考えとしてうけいれるようになりました。昔は高い学歴さえ身につければ立身出世ができ,その勉強の成果はかなり役立てることができたのですから,そのように「高い学力」を少しでも多くの人たちのものにするよう,教育の門戸を少しでも大きく開かせようとする運動が進歩的とみなされたのです。
 しかし,そのような考えは根本的な矛盾をはらんでいたわけです。エリートというのは「選ばれた少数の者」だからこそ出世できたし,その知識を役立てることができたのです。エリート教育が大衆教育になってしまえば,いくら高い学歴を身につけても「選ばれた少数者」にはなれず,その知識もほとんど役立てることができないからです。今日の学校教育の普及によってその矛盾がふき出したと見ることができます。
 昔のエリート教育がいかに成果をあげたにせよ,大衆化した学校教育ではその昔のエリート教育の内容をそのままうけつく.ことはできないのです。無理にうけついでも,その教育はほとんど役立つことのないものとなります。そしてそれは苦しさを耐え忍んで勉強するに値しないものであることが明確に浮かびあがります。そこで,学習意欲が全くそこなわれることになってしまうわけです。
 江戸時代にオランダ語や英語を学んだ人たちは,洋紙やペンやインクも自分で作り,辞書さえ自分で書きうつして,真剣に勉強したものです。いまの子どもたちとくらべると,勉強する上での物質的条件ははるかに困難だったのです。そこで,そのような事例をもとにして,よく「昔の人たちは,物質的条件にめぐまれなかったにもかかわらず,おどろくほど熱心に勉強したものだ。それにくらべると,今の学生はこんなにも本があるのにまじめに勉強しようとしないのはどうしてだ」といった説教をきかされることがあります。しかし,これは発想がまちがっているのです。昔の人は,いわば,「勉強の物質的条件がそろわなかったからこそ勉強し,今の学生は勉強の物質的条件がそろっているからこそ勉強しないのだ」といわなければならないからです。
 だからといって,いまの学生から辞書をとりあげて自分で手写しさせればよいかというと,それはもちろんだめです。自分の生きていこうとする社会の文化の状況が問題なのです。幕末の蘭学生,洋学生にしてみれば,辞書が出版されないほど外国語の研究がおくれていることに危機感さえいだいたからこそ,その語学を勉強することに情熱をもやすことができたのです。
 もともと学習意欲というものは先駆者意識エリート意識によって大きく左右されざるを得ないのです。ですから「学習意欲というものは,その事柄についての教育が普及し,学習の物質的条件がととのえばととのうほど必然的に)低下する」という法則性によって支配されているのです。私はこの法則を「学習意欲に関する法則」「先駆者効果」「エリート効果」などと名づけています。この法則は大学の教育学などの時間に講義すべきことでしょう)
 そのことを忘れて,ただやたらに昔のエリート教育の内容を大衆化しようとしても,それは学習意欲をおとろえさせ,授業を無気力なものにさせ,ついには生徒の反抗をよびおこすものにもなってしまうのです。
 

模倣の時代は去った

 ところでいま私は,「昔のエリート教育の内容はいまの大衆教育の内容にはそぐわない」といいましたが,これは誤解をまねきやすい言葉です。「昔は中学校や高校には頭のいい生徒だけが入ってきたからよかったのだが,いまは素質の悪い学生まで入ってくるからいけないのだ」と考える人が少なくないからです。しかし,「いまでも一部の少数のエリートだけは昔ながらに熱心に勉強しているか」というと,それもそうとはいえないのです。出来のよい生徒もまた先駆者としての意識をもてず,昔のエリートのような学習意欲をもてないでいるのです。いまの劣等生のために程度の低い教育内容の準備だてをすることが必要なのではないのです。新しい社会の情況に合わせて根本的に教育内容を改める必要があるのです。
 日本のエリート教育が行きづまったのは,じつは,「日本の学校教育が量的に普及した」ということだけによって生じたわけではありません。これだけの教育の普及があってもなおかつ,日本が後進国で,依然として外国の文化をとり入れつづけることに大きな精力をついやす必要があるのだとしたら,これまでの日本の学校教育はいまのような問題点をかかえなくてすんだかも知れません。前の方に見習うべきたしかな文化があるのなら,学校教育が大衆化しても,その文化をとりいれることに情熱をもやしやすいからです。「日本の学校教育は後進国型だったので,国をあげて外国を見習うことに情熱をそそいできたのが,今ではいつの間にか多くの面で世界の先進国並となったので目標を見失うことになったのだ」といってもよいと思うのです。
 明治以後の日本は,科学も技術も芸術も思想も民主主義も専制政治もみな外国を模範として,ほとんど全面的にそれをとり入れるために学校教育制度を充実させてきたのです。そしてそれが,敗戦後いちおういきつくところまで行きつき,GNPも世界の先准国並となるところまでに達し,世界一の公害国にまでもなったのです。もちろん外国にはまだ私たちの学ぶべきすぐれた文化はたくさん存在します。しかし,「何から何まで模倣すればよい」という時代はすぎさったのです。昔は舶来品といえばいいにきまっていたのが,いまでは一部のものを除いてそうではなくなっています。
 考えてみれば不幸なことではないはずです。「外国に追いつき追いこせ」というスローガンの「追いつけ」が実現したら,後半の「追いこせ」を実現するように努めればよいわけです。

 自ら新しい道を切りひらく喜びを

 しかし,じつは「追いつけ」から「追いこせ」に頭を転換することは,そう簡単なことではありません。だから問題がおきているわけです。かけっこの場合なら,走るコースはきまっていますから,追いついてきたコースをそのまま走りつづければ追いこすことができて,安心して先頭を走ることができます。しかし,歴史のかけっこはそう簡単ではないのです。先頭をいく人びとはいばらの道をきり開く仕事をしなければなりません。しかも道をどっちの方向に開いていったらよいのかわかっていないのです。「いろんな人がそれぞれの思いどおりにいろんな方向に道をひらいていって,だれかが成功したら,また,みんなで手分けして新しい道をさがして切りひらく」という仕事をしなければならないのです。すでに多くの人びとによって広く開かれた道をまつしく.らに走るのとは勝手がちがうのです。
 一本道をまつしく.らに走るのなら,そこには序列がつきます。そして先頭の人も迷わずみんなをひきつれて走ることができます。しかし道がなくなったらどうしたらよいのでしょう。自分たちで道を開くのです。銘々各自のいいと思う方向に道を開いていくのです。
 「いばらの道」といい,「ほとんど先が見えない」というと,その道を開く仕事はとても苦しいだけのように思えるかも知れません。しかし,そこには開拓者の喜びがあり,創造のたのしみがあることを見落してはなりません。それにしても,その道を開く意欲は,創造のたのしみ,開拓者の喜びを知っているものだけがいだきうるのです。
 きめられた一本道をつっぱしる教育,それは「できる授業」「わかる授業」だけでもすみます。しかし,自ら道を開くための教育となったら,道を開くたのしみを教える「たのしい授業」以外にはありません。
 こういうと,「そういうたのしい授業が必要なのは大学か大学院でのエリート教育だけで,小中学校などはいままでどおりのかけっこ教育でいいのではないか」という人がいるかも知れません。しかし,その考えのまちがっていることは,いまの日本の教育界の混乱をみてもわかります。一本道をまつしぐらに走ることになれてきただけの人は,いきなり「ここから自分で道を開け」といわれても,ただとまどうより他ないからです。すでに人の開いてきた道をすすむにも,たのしみながらすすむことができてはじめて,新しい道をみずから切り開く喜びもわいてくるのです。

*  *  *

 たのしく学んだ知識こそ身につく

 民主主義の社会では,国民の一人ひとりが自ら道を開く能力をもっている必要があります。「これからの社会をどのような方向に発展させていったらよいか」ということについて,国民の一人ひとりが意見をもたなければなりません。そのためには世界の地理や歴史について,また科学や経済や政治について,自分なりの判断ができなければなりません。いやいや勉強したのでは,そんな判断など下せるはずがありません。
 授業がたのしくなくて無理やりおぼえこまされた知識でも,だれかの仕事の下請けをするときには役立つことがあります。しかし,そういう知識は,自分自身が主人公となってものごとを判断するときには,ほとんど役に立たないのです。
 「たのしい授業」というと,「先生がじようだんなどいって子どもを笑わせたり,ろくに授業もしないであそばせることだ」と思いこむ人がいますが,それは本当に「たのしい授業」をした経験のない人のいうことです。子どもたちは今も昔もたいへんな知りたがりゃです。学校の授業で自分の視野を拡げ,技能を高めてくれることをなによりものぞんでいるのです。ただし,いまの子どもたちは,「これはあとで必ず役に立つからしっかりと勉強しておきなさい」といわれるだけでは納得しないだけの自主性をそなえているのです。
 じっさい,これまで「これはあとで必ず役に立つから勉強しておきなさい」といわれてきたことの内容はきわめて疑わしいものが多かったといってよいでしょう。「うちのお父さん,お母さんは高等学校や大学を出たけれど,英語も二次方程式も役立っていない」といったことはすぐにわかることだからです。
 

 たのしい授業は教師の心をとらえる

 しかし,だからといって英語や二次方程式が不必要だというわけではありません。勉強の仕方によっては大いに役立つはずなのです。それには,どんな教材でもその教材を勉強したとき,子どもたち自身が「かしこくなった,視野が開けた」「これはきっと何かに使えるぞ」と感じとれるようなものになっていなければならないのです。
 いや,じつはいまの教師たちも,口では「これはいつか役に立つ大切なことだから勉強しておきなさい」とはいっても,‐多くの場合,その言葉に全く自信をもっていないことが問題なのだといってもよいでしょう。「入試に役立つ」ということだけはたしかにいえても,人間として生きていく上でどのように役立つか,まるで確信をもてないことが多いのです。これでは子どもたちが確信をもって勉強できないのはあたりまえといえるでしょう。
 それは何も今日の教師たち一人ひとりが不勉強で無能だからだとはいえません。じつはかくいう私自身も,いま学校で教えられていることの大部分について,その教育的価値を確信をもっていえないありさまなのです。そこで私は,「いまの子どもたちに本当に知らせておかなければならないことは何か」「どんな知識がどのように役立つのか」ということを改めて根本的に問いただして,それで,その結果私自身が十分納得のいったことだけを教えようと考えてきたのです。そしてそれと共に私は,「授業をどのように進行させていったらこの教材を学ぶ意味を子どもたちが納得してくれるだろうか」と考えて,授業の形態についても考えをすすめ「仮説実験授業」とか「イメージ検証授業」という授業運営法を生みだしてきたのです。
 幸い,そのようにして私の作りあげてきた「授業書」はほぼ確実に子どもの心をとらえることに成功しました。いや,その前に「教師の心をとらえることに成功した」といつた方がよいのかも知れません。教師自身が「これを学んではじめて力学がわかった。目の前が開けた。使えるようになった」と感ずることができたとき,はじめてさまざまな困難をの’りこ.えて,これまで見られなかったような授業の実施が可能になったのですから。そして,教師がそう感ずることができたとき,子どもたちはもっとその授業を歓迎し,「こういうやり方でこういうことを勉強するなら,もっともっと勉強したい」というようになることがはっきりしてきたのです。
 私がいま,「たのしい授業を」というよびかけを確信をもってすることができるようになったのは,そういう子どもたちと先生方のおかげです。教育研究を本格的にはじめる前の私は,子どもや教師の学習意欲と学習能力についていまよりはるかに懐疑的でした。そしてじつのところ,「ごく一部の教師と子どもたち以外は,そんなにたのしい授業などできないだろう」とも感じていたのです。だから,ほかの人たちが今にわかに私たちの言葉を信用してくれなくとも,それはあたり前のことだと思っています。しかし,だからこそ,私たちの発見した子どもたちと教師のすばらしさを伝えたくて,『たのしい授業』という雑誌を公刊することにしたのです。
 

 人を見下すためにする勉強のつまらなさ

 ふりかえってみると,私自身の学校生活はたのしいものではありませんでした。幸いなことに,数学についてだけは,小学校のころから「数学的にものを考えることのたのしさ」を知ることができたので,たのしく勉強できはしました。しかし,ほかの勉強はまるでたのしくありませんでした。ときたま国語読本の科学にかかわる話の中に「たのしい」と思える話がのっていましたが,理科もたいくつなばかりでした。だから私は,なぜ勉強するのかわかりませんでした。
 そこで私が下した結論は,「勉強というのは他の人たちにばかにされないためにするものだ」ということでした。じっさい,「こんなことを知らないとばかにされますよ」といわれる言葉がもっとも迫力があるように思われました。「歴史も地理も理科も,人にばかにされないために勉強するもの」私はそう思って小中学校に通ったのです。
 しかし,そんな思いで勉強していたのでは,勉強がたのしくなるなんていうことはありえません。そこで私は歴史も地理も理科も国語も,人にばかにされないだけの知識を身につけることに失敗しました。じっさい,よく姉たちなどからばかにされ,笑いものにされて,とてもみじめな気分になったものでした。
 そこで私は,こんどは知識とか学問というものをのろいたい気分になりました。そして「勉強というものは,人をけいべっし,見下すためにやるものだ」と考えるようにもなりました。こうなると,「勉強すればするほど人が悪くなる」ということになって,「正義のためにも勉強なんかするものか」‘という気分にもなってきます。意気地のない私はそこまでひらきなおって勉強を拒否できず,しぶしぶ「けいぺつされないための試験勉強」などをしたのです。学校の成績が悪いとそのことだけでけいぺつされ,成績がいいとそのことだけで尊敬されるということは,私も知っていたからです。
 私が「たのしい」と思って勉強したのは長い間数学だけでした。しかし敗戦を経験した直後に,中学3年で西洋史の教科書をはじめて手にしたとき,「これは勉強するに値するぞ」と思うことができました。それから哲学に興味がわき,物理や化学が面白いと思うようになってきたのです。そのときは「人よりずいぶんおくれて学問好きになった」と思ったものですが,いまから思うと,けっしておそくはなく,むしろ早かったのかも知れません。それで結局私は,自分の無能力を思い知らされながらも,あらゆることを勉強したくなったのです。

 古くさい教育内容に対する敵意

 いまの私は,自然科学はもちろん,歴史や道徳や政治に関する授業書まで作り,美術や技術や英語や国語の授業害作りにも関心をよせるようになっています。大学入試の共通一次試験なら,すべての学科に十分な成績をとれていいほど幅広く勉強していることになるのですが,じっさいに受けたら惨憎たる成績をとることになるでしょう。私自身が重要と考えることと,いまの教育界で基礎知識とすることとは,まるっきりというほどずれているからです。
 そこでいまの私は,子どものときの私とはちがう立場から,やはりいまの教育について根本的な疑問を提示せざるを得ないのです。私は,いまの子どもたちの多くが学習意欲を失い,ときには校内暴力をふるったりすることを,私なりに理解できそうな気がするのです。
 いまの私は,子どものときの私の思いを整理して表現することができます。「勉強というのは他人をけいべっし,見くだすためにするいやらしい行ないだ」と公然ということができます。しかし,子どものときの私はそんなふうにはっきりまとめて考えたわけではなく,ただそんな風に感じていたにすぎないのです。それに私は,旧制の公立中学校の入試におちて私立の中学校に進学したとはいうものの,そのころの中学校は義務制でなかったので,中学校に進学することで少しはエリート的な意識をもちえて勉強する意欲をもつこともできたのでした。それでいま,エリートコースにものれず,学習意欲を失うどころか学習に敵意さえ感じている子どもたちを見ると,そこに親しみを感じざるを得ないのです。「そういう子どもたちにこそ,本当の学問のたのしさ,すばらしさを知らせてあげたい。そうしたら真剣に勉強するようになるにちがいない」と思うからです。
 近代的な学問をひらいた人たちのうちの少なからぬ人びとが,「小中学校の時代には,その古くさい教育内容にはついていけない劣等生で,近代的な学問研究のすばらしさを知ってから見ちがえるようになった」という話はよくきく話です。私はそれと同じことが,いまの日本で起きつつあるのではないかと思っているのです。

*  *  *

 ジャガイモはなぜ地下茎なのか

 さて,いったいどんな知識の内容が子どもにとって学ぶ意味のあるものと見なされ,子どもの学習意欲を高め,どんな内容の教材は子どもから拒否されるのでしょうか。今度は私の体験を中心に,具体的な内容について少し考えてみることにしましょう。
 「小中学生のころの私は理科が好きでなかった」と書きましたが,それはふつういわれるように「理屈っぽい理科が自分の性分にあわなかったから」では断じてありません。いまはいわゆる科学教育の専門家となっているので確信をもっていえるのですが,たいていの場合,「理科で教える知識があまりにも一方的で理屈にかなっていないように思えてならなかったから」こそ理科がきらいだったのです。
 私がはっきりおぼえていることに,「ジャガイモのイモは茎地下茎)で,サツマイモのイモは根だ」という知識があります。小学校6年生のとき,先生から渡された受験問題集にのっていた知識です。私はそのときあまりのばかばかしさに,「そんなことおぼえるもんか」と大いに反発しました。その反発があまり激しかったので,かえってはっきりおぼえているのです。
 常識的にいって,地下にあるものはすべて根であって茎ではありえません。だから強いて,「ジャガイモのイモは茎だ」というには,「イモをすべて根と考えるとどんな混乱が生ずるか。ジャガイモのイモを茎と考えるとどんなにいいことがあるか」ということをわかりやすく説明してくれなければなりません。竹や蓮根の地下茎だって,あれを根と考えるとどういう不都合があって困るのか,説明してくれなければ困るのです。
 小学生時代の私には,イモを地下茎と考える必然的な理由はまったくわかりませんでした。いや,私はそのことが気になっていたので,それから今まで40年間も「イモを地下茎と考える必然性はどう説明されるのか」ことあるたびに各種の本をしらべているのですが,いまだに納得できないでいるのです。それなのに,いまでもときどき植物学の断片的な知識のうけうりで,「ジャガイモのイモは
地下茎だ」と教えたがる人はあとをたちません。もちろん学問的にはそれなりの理由があって,ジャガイモのイモを地下茎としているわけです。その理由としてよくあげられることは,私も知らないわけではありません。しかしふつうの本に書いてある「その理由」はそのすべてを並べあげても私を納得させるのに十分でないのです。
 このことについて私は「ジャガイモ教育史」という一篇の論文をかけるほどの材料を集めています。この「ジャガイモは茎だ」という知識の教育史はひとつ教訓的な話ともなります。
 

 科学の本が専制ぶりを発揮するとき

 私の知るかぎり,多くの日本人がこういう知識をはじめて知ったのは明治8年以後のことです。その年文部省が翻訳刊行したガリグェー著『初学須知』の植物学の巻の冒頭に「馬鈴薯の塊根の如きは,…・・茎〔の〕・…・膨脹する者なり。」と書かれてあったからです。

(『初学須知』の図版)

 当時はいわゆる「究理熱」の時代で,近代科学の分子論的な世界観がそれまでの日本人の自然観を根底から動揺させていたころでした。しかし,こと博物学的な知識に関しては,それまでの日本人の常識を根底からゆさぶるような重大な知識は欧米にもないと思われていたのです。ところが,この「ジャガイモは根ではなくて茎だ」という説は,それまでの日本人の常識を超えたものでした。そこでこの知識はその後のほとんどすべての小学校の教科書にとりあげられることになったのです。「その人が文明開化の時代の植物の知識を知っているかどうか」を見るには,ジャガイモを茎と答えられるかどうかで簡単に判断できたからでしょう。それにガリグェーの本には,「凡(およ)そ根は幹及び小枝と識別し易し。これ,幹と小枝〔茎〕とは芽を生ずれども,根は否(しか)らざる故(ゆえ)なり」とも書いてありました。
 日常生活の常識からすると,地中にあるのが根で地表にあるのが茎ですが,ここでは「芽を生ずるものは(地中にあっても)茎だ」と定義されているのです。科学は専制君主ではないので,何の理由もなく常識に反した定義を下すわけもないのですが,この本にはそういう定義の変更を必要とする必然性はどこにも示されていません。科学の本も,教育の権力者と相通ずると,しばしばこういう専制ぶりを発揮するのです。
 

 サツマイモは根か茎か

 しかし,明治の文明開化の精神は,その専制的な定義の変更をそのままうけいれました。そしてその後日本人の著した教科書には,「ジャガイモでもサツマイモでも,いもは根でなく茎だ」と大書されるようになりました。
 フランスとはちがって明治の日本にはジャガイモはほとんどなく,サツマイモが普及していました。ですから,日本では,ジャガイモについて書くならサツマイモについても書かなければなりません。そこで「サツマイモは根か茎か」に判断を下そうとして「芽を出すかどうか」を見れば,たしかに芽を出すので,「サツマイモも茎だ」と書いたのです。理科教科書の編者たちも応用問題を解いて,まちがったというわけです。
 サツマイモを育てるには,茎を挿木しますが,その茎は苗床にふせたイモから出た芽がのびたものを使うのです。ですから,「芽を出すのは茎で,根は芽を出さない」という定義からすると,この応用問題の解答にはまちがいの入る余地などないように見えます。しかし植物学者は,ジャガイモのイモは茎とし,サツマイモのイモは根としているのです。
 これはどうしたことでしょう。
 このちがいを説明するには「ジャガイモとサツマイモとでは芽の出かたにちがいがある」ということに着目しなければならないのです。「一方のイモにははじめから鱗片状の変形葉がついた芽があって,そこから芽がでるのに,他方は“芽が出る”といってもそれは不定芽で,直接葉を生じないというちがいがある」というわけです。
 しかし,そんな微妙なちがいなど小学生にはなかなかわかるものではありません。理科教科書の編者たち,のちに東京文理科大学の初代学長になった三宅米吉とか,のちに東大の植物学の教授となった松村任三さえまちがっているのです。「ジャガイモは茎だがサツマイモは根だ」という知識は,グレー著(矢田部良吉訳)『植物通解』(文部省,明治16年刊)にはじめて出てくるのですが,その後も小学校の理科の検定教科書のまちがいも容易に改まりませんでした。安東伊三次郎著『生物界の現象(植物篇)』(上原書店,明治35年刊などが,「甘藷のイモは茎にあらず」と強調して,やっとジャガイモとサツマイモの区別がはっきりつけられるようになるのです。

 つまらない授業は優等生をうむ

 それではその後の小学校の理科教科書はこの問題をどう扱うことになったのでしょうか。明治40年以後,文部省は小学校の理科教科書を国定として教師用書と児童用書を出しましたが,その国定理科書には「ジャガイモは茎,サツマイモは根」とだけ書いて,なぜそのように区別するのか,その理由については教師用書にも書いてないのです。私もそういう国定教科書で理科の授業をうけたので,納得がいかなかったのも当然といえるでしょう。もちろん,その国定教科書時代にも,「なぜジャガイモのイモは地下茎でサツマイモのイモは根か」ということについて何とか「わかる授業」をやろうと努力した人びともいました。そして今もいます。
 しかしそういう授業はまったく成功していないといってよいでしょう。先生が「なんとかわからせよう」と努力していっていることをわかる子はいても,ひとつも「たのしい授業」にはならないからです。「理科ではなぜ,常識とはちがった茎の定義をするのか」その必然性がわからなければ,サツマイモとジャガイモとの芽のでかたのちがいをいくら教えても何か空虚な感じが残ってしまうからです。先生のいうことは何でもうけいれてしまう優等生だけが,「ジャガイモは地下茎で,サツマイモは根」という結論と「なぜそういえるのか」と問われたときの模範解答の書き方をおぼえて,それで優等生ぶりを発揮するにおわるのです。私はいま,そういう優等生になれなかった自分をほめてやりたいと思います。.いまの教育で優等生になれない子どももきっと「本当に心から納得しないものはおぼえるのもいやだ」と思っているのでしょう。そういう子どもたちに共感をおぼえる私の気持ちをおわかりいただけるでしょうか。

 ジャガイモの実一納得のゆく一例

 「ジャガイモのイモは茎か根か」という問題と一見まったく同じような問題に「ジャガイモのイモは実か実でないか」という問題があります。しかし,この二つの問題は見かけは全く同じでも,その教育的意義は全くちがいます。それは,「ジャガイモのイモは茎か根か」がわかっても,さしあたり入学試験に有利なだけで,実用的にはほとんど役立たないのに対し,「ジャガイモのイモは実ではなく,花がさいてなる実は他にある」という知識は,実用的にいってもとても有用だからです。それに,後者の「実とそうでないもののちがい」の説明は,茎・根問題とはちがって,小学生でもすべて十分納得がいくのです。
 この場合もじつはイモは「味噌汁の実」になるのですから,常識的な実の概念をそのまま使うことはできません。しかし,常識的な花や実の概念を改めて「種子(実)をならせるものだけを花といい,花のあとにできるものだけを実という」と定義しなおす過程は十分よくわかるだけでなく,そこに科学のすばらしさを感動的に見出すことさえできるのです。
 じつはこの問題については,私自身『ジャガイモの花と実』(福音館)という本を書いています。その本が好評で多くの大人と子どもたちによってよろこんで読みつがれているところをみると,私の考えもそうはずれているとはいえないでしょう。ジャガイモの茎・根問題に対する私のやるせない思いがその本を私に書かせたともいえるのです。
 私が「わかる授業」よりも「たのしい授業」を,というのは,その教育のねらいにこのようなちがいが出てくると思うからです。

 子どもたちへの信頼をもとに

 「わかる授業」というとき,そこには,あることを「何とかしてわからせよう」とする大人の意志が強く働いていることを意識しないわけにはいきません。私はそういう発想ではなく,「子どもは何をどのように学んだときもっともよろこぶか」ということをもとにして教育内容と教育方法とを開発していくことが,いまもっとも大切ではないかというのです。
 もちろん,このようなことはいまの子どもに対する限りない信頼に支えられてはじめていえることです。そしてそれと同時に,これまでの教育の伝統に対するかなりの不信がもとになっているともいえるでしょう。もちろん,「何をどう教えるか」ということについて,直接子どもたちの意見をきくことはできません。私たちがさまざまな教材,授業書によって子どもたちに授業をした結果で,子どもたちの判断をきくより他ないのです。教材の編成は私たち大人がやるにしても,そのよしあしの判断は一切子どもにまかせようというのです。
 いまの学校で教えているような知識の大部分は,学者たちが十分研究しつくして確かめた真理ばかりです。しかし,それがいくら知識として正しくても,一般の子どもたちにとってはほとんど学ぶ意味のない知識も少なくありません。また,本来は学ぶ意味の大きいことでも,教え方によってはそれを学ぶ意味が子どもたちにまるで伝わらない,ということも少なくないのです。そういうとき,「これは正しい大切な知識だから何とかわからせよう,知らせよう」とするのもひとつの方法です。しかし私はそういうやり方では教育の内容と方法を根本的に改めることはできないと思うのです。そして「いまの子どもたちにとって一番必要な教育内容は何か」を判断するとき,一番たしかなよりどころとなるのは,「その授業がどれだけたのしいものになるか」ということだと思うのです。
  今の子どもたちは刹那(せつな)的ではありません。いまのいま役に立つ知識だけでなく,大人になってからたしかに役にたちそうに思えること,自分たちの視野をうんとひろげてくれる哲学的な授業にもおどろくほどの意欲をもやすのです。
 「どうしてそんなことをいえるのだ’という人がいるかも知れません。それは,仮説実験授業の経験が私たちに感動的に教えてくれたのです。子どもたちが本当にたのしめるような授業の内容をもとめて研究をすすめていけば,そしてこれまでの伝統的な教育内容に束縛されずに研究をすすめていけば,きっとすばらしい教育の世界がひらける。そう私は確信しています。

(おわり)

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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