初めて出会った仮説実験授業は「物とその重さ」の一部で、板倉聖宣『未来の科学教育』(国土社新書)でした。
授業書の全体は仮説実験授業研究会の会員にならないと手に入らない仕組みでした。
本の最初に出てくるのは「物とその重さ」の授業で公立小学校の4年生の1学期に実施された授業でした。初版が1966年ですから授業の実施はそれ以前ですね。
その最初の問題を紹介します。教科書にはこんな実験はありませんから、ちょっとびっくりしたのを覚えています。
【問題1】
みなさんは、身体けんさで体重をはかったこよがありますね。そのとき、はかりの上に両足で立つのと、片足で立つのと、しゃがんでふんばったときとでは、重さはどうなるでしょう。

上図と下の選択肢が示されます。
ア 両足で立っているときが一番おもくなる。
イ 片足で立っているときが一番おもくなる。
ウ しゃがんでふんばったときがいちばんおもい。 (和式便所が普通の時代でした)
エ どれもみな同じでかわらない。
あなたの予想に〇をつけなさい。 (鉛筆で記号にマルをつけます)
アイウエの予想をたてた人はそれぞれ何人いるでしょう。(教師は意見の分布を挙手で数え黒板に書きます)
これを読んだとき心が「あっ!」っと声を上げたような感覚をいまでも思い出すことが出来ます。
これは意見が割れると思いました。子供が言い出しそうな理由も浮かびました。そして普通にはないくらい言いたがる子が多いだろうなとも思いました。案の定、そこにはものすごい児童の発言が記録してあり、いかにも!と思える展開でした。そして「優等生がどれかに集まることはなく分かれてしまう」「出来の悪い子がアに集まるようなこともない」というのもうなづけました。
それは当時思い描いていた、面白くて考える授業・考えたことが報われる授業、の典型じゃないかと思えたのです。
意見分布は、アが4人、イが11人、ウが21人、エが7人でした。
子供の発言をいくつか例示してみます。
ア「身体検査では両足でしっかり立てといわれます。それが一番重くなるからでしょう」
イ「なんとなく」(なんとなくも立派な理由ですとほめられる)
「片足で立つには力がかかるでしょ。だから」
ウ「しゃがんでうんと力を入れたら力がかかって重さがふえるでしょう。片桐君はちんばで立つと力がかかると言ったけど、ぼくはしゃがんでふんばった方が力がうんとかかると思います」
エ「はかりに乗るのは同じ人でしょ。だから片足で立ったって、しゃがんだって、どんな格好をしても重さは変わらないと思います」
ここからは意見続出で先生の出る幕はなくなる、と書いています。終了時間のチャイムが鳴っても、ふだんチャイムのことを気にする子供たちが「言いたくて気がすまない様子」で、続けようといいます。
討論が詳細に記録してありますが省略します。興味のある方は『未来の科学教育』をどうぞ。
さて、討論を打ち切ったら、次は「実験」です。
問題にあった実験をその通りやってみます。
子供たちは「エが正しい」ことを知ります。
子供達は何がわかったのでしょうか?
自分たちの立てた仮説(理由を含む)が正しかったか、正しくなかったかを知ります。
体重は立ち方や姿勢には関係ない、力を入れても変わらない、という認識を得ます。
先生の説明やわからせる努力やその他いろいろの手練手管は一切ありません。
シンプルで美しいとさえいえる学習過程です。
問題 → 仮説(選択肢)の選択 → なぜそう考えるかの討論 → 実験
それで「子供たちがこんなに興奮した授業はなった」というくらいうの熱中があり、しかも実験結果で理解する内容にまぎれはありません。板倉はこう書いています。
「みんなの前で意見を言ったのはクラスの半数ほどでしたが、発言しなかった子供たちもあきらかに興味を持って聞き入っていました。その子供たちも討論の打ち切りに反対したからです」
最後に子供たちの「感想文」が載っていて、これもたいへん興味深いものでした。
ふつうはこれは「自然科学の授業だな」、「理科の授業だな」で終わるところかもしれませんが、どんな内容の授業にも応用できる考え方と手法がありすぎでした。
・子供が興奮し熱中する問題というのがきっとある!
・選択肢が問題の意味を子供たちに明確に伝える。まぎれがないので子供たちは問題に集中できる。
・子供たちの考えと討論が問題の本当の意味を浮かび上がらせる。
・最後に実験が真実を明らかにする。
仮説-討論-実験のセットで、子供たちは大事なことを手に入れる(理解する)。
・この学習過程には、子供たちが教師の考えや気持ちを忖度する余地が一切ない。教師の押し付けが排除されている。
その後これが自分の目指すべき授業の原型になっていきました。
ぼくは仮説実験授研究会には所属しなかったので、「授業書」の全体を手にれることはできませんでした。
なんとなく、そういう秘密結社的な研究の進め方(板倉さんにはちゃんと理由があってその理由は理解できます)が、ちょっと肌に合わなかったような気がします。
なので、ぼくが仮説実験授業についていろいろ言うのは、研究会で仮説の研究を進めてきたみなさんには不愉快な面があるかもしれません。間違いも多々あることでしょう。
いまある歴史授業は板倉さんと仮説実験授業のおかげだと思っているので、感謝の気持ちで書いています。
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