その年は歴史授業つくるために「自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)」を立ち上げた年でした。
それまではごく常識的な教師として楽しい授業・わかるできる授業をめざしていた。一般の教員とちょっとだけ違っていたのは月間『授業づくりネットワーク(藤岡信勝編集長)』(学事出版)の編集員をやっていたことくらい。
昨年の春、このころの教え子だった田口友香さん(旧姓)がこんなメールをくれたのですっかり忘れていた教師になりたての時代を思い出すことになった。
「齋藤先生 大成小学校卒業生の円谷友香(つむらやゆか)(旧姓田口)と申します。 齋藤先生に5・6年生の時、ご指導いただきました。 「よかったさがし」「はらっぱ文庫」「クラス通貨」…通学するのが楽しみで仕方なかったです。 ありがとうございました。齋藤先生のような先生になりたいと思い、よかったさがしで自信を持った書道、の先生になりました。雑誌「致知」でも先生のご活躍を喜んでいて、御本も拝読しました。 現在は、さいたま市の未来くる先生になって、学校で授業を行なっています!Facebookにも投稿しています。 そして、先生のことも、子供達に伝えています。
お友達申請をさせていただきます。よろしくお願いいたします。」
友香さんは円谷風香という著名な書道家になっていました、
「よかったさがし」はポリアンナのお話でクラスマネジメント、原っぱ文庫は保護者の応援による学級文庫、クラスマネーはだれかの実践をまねしたもの。教師としての力量がないから物珍しいことをいろいろやってつないでいた。
そのひとつが国語の「言葉遊び」の授業。専門がないので、勝手に自分は「国語の先生」だと思うことにして、いろんな試みをやっていたその一つ。授業の延長で、担任した子供たちの「名前」を借りてアクロスティック(日本では折句といいます)をつくっていた。子供にやらせるだけじゃダメだなと自分もやったわけです。
それが最後にこの『名前詩集』になった。
大宮市立○○○小学校の6年生の名前を借りて全員文をつくって遊んだのだった。
これからは歴史をやるとなると、こういう趣味的なことはたぶんやれなくなるんじゃないかと思って、最後にわが才能の記念碑(笑)を残そうと思ったわけだ。
たぶん、いまならこんなこともできないでしょう。教師の遊びですといってもいろいろとクレームが来るような気がします。子供の名前で遊ぶにしてはちょっと「危ない表現」もありましたから。けっこう異性愛を主題に選んでいたな。そのせいで女子児童から「どうして先生は私の今の気持ちを知っているんですか?!」と詰めよいられたこともありました。6年生もあんがい恋をしています。
ということでこれです。
私家版『名前詩集』は教科研の夏合宿「高野山大会」に持っていった。
そのために印刷製本してみた。50部くらいだったかな。自分としては国語の研究実践の一欠片のつもりだったが、残念ながら誰一人見向きもしなかった。残念!
たった一人だけこれを作品として評価してくれた人がいた。石川晋さんです。高野山の夜の宿坊で二人で酌み交わした時間がなつかしい。紆余曲折のトンデモ人生だったが自分なりの物語があって、そのもの語りがいま終わろうとしていた。たぶんまたもや異様に騒がしい時代に巻き込まれていくことになるだろう。本意ではないが運命はうけいれるほかない。その極私的な分水嶺にちょっとした思い入れがあったときに、たぶん初対面だった石川さんだけが寄り添ってくれたのだった(もちろん彼はおじさんの独りよがりな思いなんか知らない)。若き日の石川さんありがとう。
あの高野山大会では、授業づくり部会の分科会にはあまり顔を出さずに、『近現代史の授業改革』(明治図書)の創刊号を平積にして売っていた。激しいトーンの赤い表紙写真は、真珠湾攻撃で炎上して大きく傾いた戦艦アリゾナの大写しだった。大ぜいの教科研の先生方が遠巻きにしてヒソヒソしている様子がなんとも面白かったのを覚えている。
そこからは、歴史の授業づくりがわが人生の大テーマになった。そして16歳くらいから連続していた一つながりの物語が自分のなかで終わった。そのときの小さな遺品が『名前詩集』です。
言葉遊びが好きな方がいたら嬉しいです。回文ほど高度なモノじゃないですが、当時はそれなりに楽しんでいました。
1 くろさわまゆこ
2 とがしみつる & 3 たかはしゆみこ
4 むらたしゆういち & 5 かあいゆみこ
6 なかにししゆういち & 7 なかむらちえみ
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