宣長は短歌の実作者として歌道の伝統や儒学・仏教思想の入った考え方に違和感を持っていた。そこに契沖や荻生徂徠の実証的な方法論に学んでその違和感に挑んだ。それが歌論や源氏物語論に結晶する。それについてはこれまで素描してきた。
直接の師は賀茂真淵だった(膨大な量の往復書簡)が歌論については激しい意見の対立もあったが、『古事記伝』は真淵の万葉研究の継承だった。宣長は『古事記』を読むことを通して古代人の精神の研究「古道」に入っていった。それまでの国学から歌や物語のさらに先にまで進んだことになる。
ここからは先崎の本には書かれていない。氏がなぜ前半の宣長でやめてしまったのかは、何も説明されていない。あるいは続編があるのかもしれない。
宣長が排そうとした「漢意」はシナの漢字文明だった。あるいは、シナの漢字文明(儒教・仏教)を受け入れて1000年その上で考えたり書いたりしてきた日本の知識層の漢意(からごころ)だった。これをやめて本来の歌の心・物語の心をよみがえらそうではないか!
これと同様に、日本の神祇信仰(神道)は仏教伝来以来これと習合して長く仏教の下位に甘んじてきた(本地垂迹)。神社には神宮寺があってその別当が神々にお経をあげてきた。これをやめて古代の純粋な神道にもどろうではないか!清らかな神社にもどそうではないか!
これが平田篤胤に受け継がれて広がりを持ち、幕末から明治初期の政策に反映されることになる。
平田篤胤の復古神道には、神道を仏教から切り離して純化する面と、村や町の神道(祀る神)を記紀の神々に結び付ける国家神道的な面の両方があった。しかし、平田篤胤自身は儒仏ばかりか蘭学(近代科学)や世界の宗教や神話まで学んだ上に、幽界論のようなオカルトまで入っていた。まさに新時代の「漢意(からごころ)」の塊みたいな人だったのだ。復古神道の大衆組織力はすさまじく、関西・中部・関東・東北などの商人・豪農・神官などに一気に広がった。
本居宣長の弟子たちは彼を「山師」とよんで遠ざけたそうだ。
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「尊皇攘夷」というスローガンが幕末日本を動かして維新の成功をもたらすが、白人の近代文明に対する「攘夷」には顕教と密教があった。
顕教の攘夷は「いますぐ白人どもを打ち払え」という勇ましい意味だった(小攘夷)。
密教ほうのの「攘夷」は「開国して白人文明に学んで実力をつけてから攘夷できるようにする)」というリアリズムだった(大攘夷)。
多くの武士は前者の意味で働いたが、高杉晋作や大久保利通などのリーダー層は明確に後者で維新を考えていた。が、人を動かすスローガン「尊王攘夷」はそのままだったので、「尊王攘夷がいつのまにか尊皇開国になっていた」という話になる。それはこの顕教と密教の行き違いからきている。
しかしこれが大成功だったので、一般大衆は顕教で動かしておいて、実質の政治は密教で動かすのが能率がよいという考え方が生まれてくる。それが明治の支配層の暗黙の合意になっていったような気がする。
維新における顕密効果が大きかっただけに、この考え方は明治の支配層にも受け継がれていき、立憲制度の導入などの際にもこの手法が使われたように見える(意図的だったか、結果そうなったのかはわからないが)。これが昭和の初めに大きなしっぺ返しにあうことになった(これについてはいつか書きたい)。
「王政復古」も絶大な威力を持ったスローガンだったが、こちらのほうは尊王攘夷よりもかなり複雑骨折していた。
・これからは天皇の国日本(復古)になる。大君の国(幕府)と280の国(藩)は終わる。
・幕府の老中による合議制の政治は終わり、古代と同様の天皇親政の国(中央集権)になる(復古)。
・古代律令の神祇省を復活して国家神道でいこうとする(復古・祭政一致)。
→立憲制度で国際社会生きるために国家神道は形式的なもの(密教)に終わった。しかし皇国史観と神話国家観(顕
教)は国民に深く浸透していきロシアに勝利するほでの強い国民軍が生まれた。江戸の平和な農民が30年ほどで国
のために死ねる国民になった。
・実際は薩長藩閥政治になり、やがて立憲君主制になった(非復古)。
・漢意を排して仏教伝来以前の清らかな神道の国日本に戻る。
→廃仏毀釈が起きる。日本史上まれにみる愚行です。
・漢意は排するが儒教(漢学)はその限りではないとなり、やがて仏教も大事だ、になる。
その結果、国家神道は「宗教」ではにことになった(非復古)。
・古代の「一君万民」に戻る
→これが武士の廃止と四民平等に結実する(復古のつもり)。
・都合のいいところだけ「復古だ!」としてうまくいく。
→(例)「復古としての洋服導入」大和時代の兵士はズボンをはいて戦っていた(埴輪のことです)のだから、陸海軍の
制服は洋服にして、天皇も洋装の軍服を着ると、詔勅に書かれている(復古のつもり)。
・江戸時代までの漢意(シナ漢字文明)はケースバイケースで排するが、新時代の「漢意(西洋近代文明)」は積極的
に導入していく。これが怒涛の文明開化になり、富国強兵になる(非復古)。
というような塩梅で、「復古」の精神によって「天皇の国日本」という維新派は成立したが、その他の「神武創業にもどる」はあいまいにされて(もともと不可能だった)、西洋文明の導入によって富国強兵を進めることになった。
近代国家を建設して西洋列強並みの文明国になり、戦争にも勝てる国にするしか日本が生き延びる道はなかったからだ。ほかに選択できる道がなかったことは明治日本の歩みを見ればよくわかるだろう。日本には「仏教導入以前の大和」にもどる(本気の復古)という選択肢はなかった。しかし新国家形成のエネルギーを生み出したのが「天皇中心に団結する国」という「復古」精神だったのである。教育その他の情報戦略が国家と国民を形成した。
この「王政復古」を本気で生きようとした活動家が列島のあちこちにいた。
島崎藤村『夜明け前』の主人公青山半蔵のような復古神道の活動家(平田篤胤派)にとって、怒涛の西洋化は「裏切られた革命」に終わった。それは「新時代の漢意(からごころ)」推進政策だったからだ。本気で「漢意」以前の清らかな日本に戻りたかった彼は、木曾の豪農として維新を支えるが、最後は新しい「漢意」に翻弄されて狂気のうちに自死した。木曽の山中だけでなく、おそらく日本全国各地にに町人・農民・神官などの「青山半蔵」がいたのだと思う。
そして、まさに彼らこそ各地で廃仏毀釈を実行した人々だった。
政府からは仏教を攻撃せよというような指示はまったく出ていない。「神仏分離令」が出ただけである。
分離すればよかったのに、寺院を破壊し、塔を燃やし、古来の貴重な仏教美術を破壊した。奈良の国宝や重文はかろうじて生き残った残骸の山である。これはまさしくもうひとつの草莽崛起の大爆発だったのである。「仏教以前の清らかな日本にもどろう!」
それが日本史上最悪の破壊活動になってしまった。
神仏習合で、江戸時代までは寺と神社は一体だった。牛頭天皇や七福神などのサンスクリット由来の神々や〇〇大明神〇〇大権現などの祭神も賑やかだった。「寺⁺神社」には仏さまや仏教由来の神々や外国由来の神々が仲良く集っていた。
全国の神社がいまあるように「日本らしい神社」になったのは明治になってからです。
武蔵一宮の氷川神社には、いまは素戔嗚尊と櫛稲田姫と大国主命が祀られているが、江戸時代までは牛頭天皇が祀られていたらしい。が実際はよくわからない。江戸時代のごちゃごちゃした神仏習合の神社は、近代日本の150年にとっては恥ずべきものになったので深く隠されてしまったからだ。
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ちなみにぼくは近代日本人なので、たぶん江戸時代の神仏習合神社(見たことはないけど)よりも今の神社のほうが好きだと思います。国学と後期水戸学が創造した「復古=近代化」のいちばん成功例は、この(古代的=近代的)神社の創造だったのではないでしょうか。
【注】地域によっては「神仏分離」は江戸時代の早い時期から始まっています。薩摩や水戸などです。また、地域によっては神仏習合の在り方がここに書いたものとは違っていたケースもあります。都市と農村でも違いがあるようです。
【注2】最近流行の薩長の明治維新は間違いだったとか、薩長の志士たちはテロリストだったとかいう「明治維新否定論」は間違いだと考えています。複雑な歴史過程をそのまま受け入れられない単細胞はけっこうはびこっていますね。
(つづく)
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