宣長や真淵ら国学の本質は「日本を発見した」ということよりも、古代の和語で書かれた歌・物語・古事記をシナ漢字文明と一体化してしまった常識(漢意・からごころ)から解放して「読めるようにした」ことだと思う。「日本の発見」までいうとまたそこにで漢意に足をすくわれるような気がしている。
(全集①ー48)
漢意(からごころ)とは、異国のふりを好み、かの国をたふとぶ(貴ぶ)をのみいふにあらず、大かたの世の人の、万(よろず)のことの善悪是非を論い(あげつらい)、物の理を定めいふたぐひ、すべて漢籍の趣なるをいふ也
これはもう学問すること、批評すること、いや考えることのすべてが漢意であると言っているに等しいと思う。そして実際そうだったのだと思う。長谷川三千子『からごころ』はそれが主題だった。
いまはその上に、西洋近代文明という第二の漢意がのっかっていて、問題はさらに複雑になってしまった。
先崎は結論のように書いている(P308)。
「恐らく宣長最大の功績は、和歌と物語世界が肯定と共感の倫理学を主題とし、恋愛から日本という国家が立ち上がってくることを証明したことにある」
恋愛から日本という国家が立ち上がってくる、という比喩はあまりよくない、と思う。なぜなら日本という国家が立ち上がるためにはシナの漢字文明という外圧と文明開化が不可欠だったと思われるからだ。
「宣長は圧倒的な先駆的業績として、日本を恋愛との関係で論じて見せた。日本という国家を論じるためには、女性的なものから考えねばならないと主張したのである。宣長が強く否定した儒教的価値観とそれにもとづく国家観は、今日でも私たちの思考を呪縛している」
この表現ならわかる。「女性的なもの」というのは男女の性愛を価値の上位に置く、という意味である。
先崎の恋愛的国家観は宣長の次のような考え方からきている。
(全集⑧ー339)
色好みといふことは、國を富まし、神の心に叶ふ、人を豊かに、美しく華やかにするーさういふ神の教え遺したことだと考へてをつた(中略)仏教でもさういふ邪淫の道はゆるさない。儒教の方では勿論やかましく規律している。古代日本を離れた、理論によって、反省せないではいられなくなりました。
また折口信夫の次のような神話国家論も影響している。
「色好みとは、国中の最もすばらしいとされてる女性と婚姻関係を結ぶことをさす。その女性は国の神々に使える巫女であり、宗教的な特異な威力が備わっている。婚姻は、その女性を男性が養うことを意味する。女性の宗教的威力は男性権力者の上位に位置づけられる。そして男性権力者は、複数の巫女との性的関係を通じて、国々の神を統合するのだ。性的な関係によって、自らが治める国をより安定させ、豊饒な国として統治できるのある」(P210)
ニニギノミコトが木花咲耶姫(山の神)と、火遠理命が豊玉姫命(海の神)とそれぞれ婚姻を結ぶような例を考えることができる。また歴代の天皇も各地の豪族と婚姻を結んできた。折口は光源氏にこういう色好みの系譜を見ていたが、巫女である女性の霊力をいうためだった。王の性的関係が国家統治と関わるのもちろんだが、それによって国家が形成されるわけではない。
これは吉本隆明の共同幻想論の核心になる次のようなものの見方がある。
・人間は家族においては男性や女性、または親と子供として存在する。そこでは、男性であるか女性であるかが価値の源泉である。つまりセックスが価値の源泉であるような共同体が家族である。それが家族という共同体の本質である。
・国家・社会では男性か女性かは二次的な問題になる。そこでは男性・女性というありかたは価値の源泉にはならない。「性的な関係」にもとづく家族とは異質な共同体(吉本は逆立ちすると表現した)である。
・家族は国家・社会を形づくる部分集合だが、両者の共同体としての意味(価値)は逆転している。例えば、会社や役所ではセックスは生産的ではない。
この見方が「日本とは何か」を読み解くカギになると思っている。
(つづく)
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