この本は人物本居宣長の前半生を公平に描くのが目的であり、「もののあわれと日本の発見」について論じるのが直接の目的ではなかったようだ。その点ではちょっと思い違いをしていて、副題への期待が大きすぎた。読了して少し肩透かしを食らったような気分だった。
が、そう理解してみると、「あしわけをぶね」「石上私淑言」「紫文要領」までの宣長が実によくわかった。とくに同時代から現代までどんな議論がされてきたか(学説史)を丁寧にトレースしていく書き方がわかりやすさを支えていた。これが学者の本領だと思い、そういう本が少ないだけに有難いと思った。
宣長にとって『日本書紀』は否定すべき本だった。「漢意・からごころ」の始まりだからだ。
古代中国語(漢文)で国の歴史を書くことは、国がシナ中心の世界の方に顔を向けたことであり、シナとの関係で自国を認識し始めたことだった。それはシナと日本の関係性から、新羅や百済や高句麗を下に見ようとする意識の始まりだった。先崎はこれを「宣長はナショナリズムを嫌った」と書いている。
また宣長は『日本書紀』に出てくる「日本」という国号を好まなかった。「夜麻登(やまと)」が宣長にとっては「山処(山のあるところ)」であり、いちばん好ましい国の名前だった。「やまと」が「大和」になり「日本」になることで失っていったものを、宣長は「やまとごころ」と呼んだ。古代人の心(生き方)のことである。
宣長はとても難しい場所に立っている。
考えを述べる前に、少しだけ処女作「あしわけをぶね」から宣長の立ち位置を以下に引用(現代語訳)する。
(全集②-3・・・筑摩書房全集②巻3ページ)
歌の本質とは、政治の役に立つものでも、修身のためでもない。ただ心に思うことをいうだけのことだ。その中には、政治に役立つ歌もあるだろうし、修身のための歌もあるだろう。また国家の害になっり、身の災いになる歌もあるだろう。それらすべては、人の心からでてきた歌によるものなのだ(中略) にもかかわらず、教戒のためではなく、恋の歌が多いのはなぜかといえば、歌の本質が、恋に自然と表現されているからである。何事も好色のことほど、人情が深いものはないのである。多くの人が欲するから、恋の歌が多いのである。
(全集②‐30・31)
とりわけ他人の妻と関係を持つことは、幼い子供でも悪いことだと知っている。だが色欲は、やってはいけないことだとわかっていながら、やむにやまれぬ深い情欲があるので、とくに不倫にはのめりこんでしまうことがあるのだ(中略)人情が深く切実になればなるほど、感情のこもった歌が湧きあがってくる。源氏物語や狭衣物語があわれなのは、こうした理由による。ならば歌の道と伊勢や源氏の物語は、この世の人情をありのままに描き出して、優美なることを誉めるべきなのである。
歌は修身治国平天下とはかかわりがないと言っている。「古今伝授」以来の「歌は恋の歌が多いが実は政治の奥義を示しているのだ」といった漢意(からごころ)を排して、男女の性愛こそ価値があると逆転させている。恋の歌は恋の歌だから価値があるのだ。人間にはやむにやまれぬ深い情欲があって不倫などにのめり込むが、そうした人情が深く切実なほど歌の心情も深くなる。歌の道も伊勢物語も源氏物語もそれを表現するから優美なのだ。政治の奥義とか人生の教訓とか道徳の善悪などのために歌があるのではない。
これが処女作「あしわけをぶね」の核心のモチーフだった。
宣長の言う「からごころ」を排して、男女の性愛をそのまま価値の中心に置いてきたのがわが国の歌であり「もののあわれ」を知ることなのだというとらえるのがよい、という主張だ。これが宣長の出発点であり、この後「古学」に進む際の原点になる。
わが国の学問ははじめから漢学(儒学)と仏教が中心だった。古代の大学寮では漢学が教えられ、徳川日本の藩校でも儒学(朱子学)が教えられた。その「考えること」の伝統の中で歌や物語はあくまで劣った分野だった。かな文字が「仮の文字」であったように、格下の表現とされていた。
歌や物語を評価しようとすると、「治国平天下」「道徳」「教訓」にこじつけて論じられてきた。細川幽斎が「古今伝授」をそういう方向で磨いて、徳川家康のそばに林羅山とともに並んだのは、この文脈の上でだった。歌の地位を高めるために文章のカーストに従ったわけだ。したがって、歌や物語の解釈も、儒学や仏教の世界観と常識の上で行われてきた。
契沖や賀茂真淵や本居宣長はこの1000年の伝統に抵抗した。荻生徂徠が朱子学に抵抗して「古典に立ち返れ」と言い、古文辞学という方法を確立したことに学んだのだ。それでも、先崎によれば賀茂真淵までは儒学的な教養がまだ邪魔をしていたらしい。真淵が万葉集を評価するのは、真率な表現で技巧的でないということもあるが、男女の性愛よりも国家が上だという価値観が影響していたらしい。
その点は引用したように、本居宣長は突き抜けていた。宣長は万葉集よりも古今集を評価している。
(つづく)
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