南北朝正閏問題に学ぶ 8 (まとめ)



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あっちこっちしてしまってわかりにくかったでしょうが一応何があってどうなったかは書けたと思いますので、そいろそろまとめます。また なんで今頃南北朝正閏問題なんてやってるのか?意味が分からんというコメントをいただいています。ここでそれにも答えられればいいと思います。結論から言うと戦前の皇国史観の意義は認めつつも、考え方の違いも明らかにしていきたい。その作業の一部です。

歴史授業の改革に取り組み始めたとき、まずは何よりも近現代史、とくに昭和の戦争の授業改革を考えていました。
それに取り組むうちにある大きなテーマが浮上してきました。それは「日本は天皇の国である」という大きな物語をどう教えるのかという課題でした。いわゆる広い意味での国体論ですね。戦前まではそれが国民共有の物語であり、日本という国の元気の素でした。

戦後の「象徴天皇制」も「天皇の国」の継承ですが、いま国民の多くは天皇のことをよく知りません。いやほとんど知りません。歴史をそういう目で学ぶことがないからです。

それは敗戦後の被占領期に、「日本は悪い戦争をした」→「日本が悪い国になったのは天皇・神話・神道のせいだ」→「天皇・神話・神道を学校で教えるのはやめよう」となって、そのまま今日に至ったからです。

GHQの指示とプロパガンダで始まったことですが、やがて日本人もそれを受け入れました。多くの日本人は「あんな戦争はもうこりごりだ」「平和なら何でもいい」となったからでした。「GHQだけでなく進歩的な文化人がみんなそう言うんだから、天皇・神話・神道は学校で教えないほうがいいんだろう」そう日本人の多くも考え、それが「空気」となって蔓延していきました。

かくして、近代日本を生み出し、ほぼ全国民に共有されていた「天皇中心の国日本」という大きな物語は煙のように消えてしまいました。近現代史の日本と日本人のことがわからなくなったのは、それも原因の一つです。国体(天皇の国)という歴史の物語を小中高大でまったく教わる機会がなくなり、国民の常識ではなくなってしまいました。

一つの近代的な国家共同体の成員が共有できる物語をまったく持たないというのはとても不健康なことです。結果的に日本人を根無し草にしてしまいました。日本人として生きる根っこが失われたからです。

具体的に授業をつくり実践しながら、昭和の戦争を理解するためにも、明治を理解するためにも、維新を理解するためにも、国体論(日本は天皇の国という物語)を子供たちがわかっていることが欠かせないと思えてきたのです。当時は私自身もそういう教養はほとんど持ち合わせていなかったのです(恥)。

そこで改めて古代から近世までの歴史授業のカリキュラムを「天皇の国日本の歩み」としてとらえなおし、子供達にも理解できるような授業づくり(カリキュラム)をつくっていこうと考えました。

当時、そういう問題意識を周囲に示してみると、二つの考え方に分かれました。

A それに触れることは結局戦前の「皇国史観」に帰ることになる。危険だからやめておけ。現状よりもさらにこっぴ
  どく批判されることになるぞ。

B 戦後教育よりも戦前の「皇国史観」の教育のほうがはるかにましであり、正しかったのだから、さっさと戦前の教
  育に戻ればいいのだ。

私は両方ともダメだと考えていました。その理由は長くなりそうなのでここでは省略します。私の直感は、戦前の皇国史観とは異なる、現代にも生かすことのできる「シン・皇国史観」を生み出せないか、というものでした。

「天皇の国の国日本」という物語を復活させないと「戦前の日本人(明治以後)」を理解させることは出来ないが、昭和の皇国史観はちょっと違う。戦争をやるためにやむを得なかったかもしれないが、エキセントリックでオカルト的なものになりすぎた。それでは戦後ウン十年日本では難しいのではないか、と思えたからです。

そこから、自分が気になっているところ、違うと考えているところを明らかにしていく作業が始まりました。

「皇国史観(国体論)」がなければ明治維新も明治の国づくりもありえませんでした。
近代日本を国民国家にしたエンジンはまさに「皇国史観」だったからです。
それがなければ王政復古も廃藩置県も日露戦争の勝利もなかったでしょう。
皇国史観は明治日本の国民形成のために、明治の先人たちがデザインし創造した国民のための歴史の見方であり、それが教育などを通じて日本人のほぼ全員に共有され、あの元気で強い団結する国民国家を生み出したのです。

しかし、日本はその後、復古(本来の日本)という軸と、新しい日本(西洋文明を取り入れた日本)という軸がうまく整理・総合されないまま状態で、国際社会の急激な変化にさらされていきました。それはやがて「帝国主義列強の一員・日本」という軸と、「差別され支配されてきたアジアの一員・日本」という軸の矛盾にもさらされることになりました。

昭和に入り、経済恐慌や第一次世界大戦後の国際環境の激変、世界秩序変更などの外圧にさらされて、日本は新たな「復古(本当の日本に還りたい)」の方に舵を切っていきました。「西洋を入れたこと自体が間違いではないか?」というリアリズムを欠いたある種の理想論が突出してきます。

その萌芽が「南北朝正閏問題」でありやがて「天皇機関説の弾圧」と「天皇主権説への転換」「国体明徴論」・・・と進んでいきました。突き詰めると「天皇親政」へのあこがれであり、「立憲君主制(大日本帝国憲法)」への拒否感でした。

ですから、Bのように、ここに戻ることは間違いだと考えました。それは当時にあっても間違いだったと考えるからです。

まだまだ途上にあり、大雑把な議論になりますが、戦前の皇国史観(国体論)との相違を次のように考えて授業をつくってきました。

「日本が好きになる!歴史全授業」シン・皇国史観

(基本の考え方の相違)
①日本の国体のオリジナリティーは「権威」と「権力」の分離にあったととらえる。

②それは中国にはなく、西洋でも英国の名誉革命ではじめて出てきた考え方(立憲制)であり、日本はそれを9世紀の
 嵯峨天皇の時代に始めている。その国体が武家政治においても継承され明治の大日本帝国憲法に結実した。

③したがって、後醍醐天皇の事績を「中興」とはとらえない。明治が天皇親政の復活ではないから。

④大日本帝国憲法こそ本来の日本の国体(権威と権力の分離)の継承であり、象徴天皇制もその継承である。
 日本的な立憲制の確立は西洋よりも800年ほど早かったのだととらえる。(今谷明『象徴天皇制の源流』ほか)

⑤だから大日本帝国憲法に始まる立憲制度を「西洋的」ととらえ、天皇親政にあこがれた戦前の皇国史観(国体論)は誤
 りである。

(歴史授業上の相違)
①神話ではなく考古学から歴史授業を始める。
 これは天皇以前があったことを教えることであり、日本文明にとって縄文文化が重要だという考え方に立つ。
 神武建国は(実在したとしたら)弥生時代であり、そのころにできた「およそ100国」(漢書)のひとつとしてみる。
 統一国家「大和朝廷の国・大和」の成立から「天皇の国」は始まる。

②天照大神の天壌無窮の神勅が「天皇の国」を決め、日本は神代の時代からずっと天皇の国であり、まっすぐ迷いなく
 昭和まで来たというふうには見ない。
 たくさんの危機もあり分かれ道もあったが(天皇が二人いたときもあったが)、天皇・貴族・武士・国民が努力して「天皇の国」を継承し守ってきた。それで結果的に2000年続くことができた。

③建国神話は「天皇の国」が成立した古墳時代の次に、仏教伝来の授業の前に教える。歴史の最初でもなく、
 記紀が成立した奈良時代でもなく、ここで教えるのがベストだと考える。日本書紀・古事記は「天皇の国」の由来で
 あり、その記述の内容は縄文時代~古墳時代~飛鳥時代だからです。

④歴史人物を「忠臣」(正義)と「逆賊」(悪)に分けて教えることはしない。

⑤その他 学習指導法やカリキュラムの相違など。


以上。今回はこれで閉じます。読んでいただきありがとうございました。

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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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