後醍醐天皇の建武の中興は長くは続かなかった。
足利尊氏が反旗を翻して室町幕府を建てたからだ。後醍醐天皇はこれを見て三種の神器を持ち出して吉野に入った。これが南朝と呼ばれた。尊氏は反後醍醐天皇派の皇族を担いで即位していただいき、征夷大将軍として幕府を開いたのである。これが北朝である。
北朝の天皇は【光厳天皇-光明天皇-崇光天皇-後光厳天皇-後小松天皇】と継承された。南朝の天皇は【後醍醐天皇-後村上天皇-長慶天皇-後亀山天皇】と継承された。およそ半世紀に及ぶ王朝の並立時代を南北朝時代という。
三代将軍足利義満はこの異常な日本を正常な国体に戻そうとした。南朝支持の武将をつぶしていって南朝の弱体化を図り、後亀山天皇に南北朝の統合案なるものを示した。
1 三種の神器を北朝の後小松天皇に譲る。
2 後亀山天皇を上皇として認める。
3 後小松天皇は南朝側から皇太子を選ぶ(次は南朝の天皇が即位する)。
どうなったか。
1は「盗まれていた神器が戻った」ことにされた。
2も北朝側は抵抗したが義満が押し切って上皇としたが、「天皇には即位していない上皇(不登極帝)」という扱いになった。
3も約束通りにはせず後小松天皇は実子を皇太子とした。これが101代の称光天皇。後小松上皇はその次も南朝には渡さず、遠い親戚の伏見宮彦仁を選んだ。これが102代後花園天皇。
要するに義満の和解案はほとんど実行されなかった。後亀山天皇はだまされた形になった。その後の皇統はこの北朝の血筋で継承されていった。明治天皇、昭和天皇、上皇陛下、今上陛下もみな北朝の子孫である。
後亀山が天皇でなくなった以後を「後南朝」という。この経緯に南朝側は怒った。後南朝は実力で抵抗していく。嘉吉3年御所を急襲して、天皇暗殺には失敗したが三種の神器のうち剣と璽(玉)を奪った。北朝側は剣は奪還したが璽は奪われたままとなった(禁闕の変)。
北朝側は元守護大名の赤松残党を使って南朝をだまし、璽を取り返すが、このとき赤松残党は南朝の正統な継承者にあたる二人の王を殺害した(長禄の変)。これによって後南朝は滅亡し南北朝の騒乱はようやく幕を閉じた。前回の幸徳秋水の発言(うわさ)はこの件に触れたものと思われる。
以上、ちょっと復習が長くなってしまいました。
繰り返しになるが、後醍醐天皇以来の南朝はここで滅亡したので、以後は北朝の血筋で皇位が継承された、したがって江戸時代までの天皇歴代系図は次のようになっていた。
93後伏見天皇-94後二条天皇-95花園天皇-【96光厳天皇-97光明天皇-98崇光天皇-99後光厳天皇-100後円融天皇-
101後小松天皇】-102称光天皇‐103後花園天皇
【 】内のように北朝の天皇で継承されたことになっていた(代数の数字は仮です)。
これが明治になって下図のようにひっくり返った。天皇の代数は南朝側の天皇で書かれるようになった。
北朝側には「北1」~「北5」と書かれている。
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