このテーマは再論になりますが前回はまだ全体像がよく呑み込めていなかったのでもう一度やってみます。
千葉功『南北朝正閏問題 歴史をめぐる明治末の政争』(筑摩選書)という実証的な研究が出たおかげでいろんなことが解けてきました。山県有朋はほとんど関与していないことなど事実関係もくわしくわかってきました。
「天皇中心の国日本」という物語を現代の歴史教育に健全に復活させるために参照しなければならない事件であり、歴史学と歴史教育の望ましい関係を考えるうえでもとても重要です。
1 教科書が国定になって出てきた問題
明治36年(1903)4月に小学校令が改訂されて教科書国定制が確立した。第一期は翌明治37年(1904)から使用されている。それまでの検定制度下では南北朝の記述のほとんどは「南朝正統」の立場で書かれていた。これは明治維新以来の「常識」だった。その起源は北畠親房『神皇正統記』でそれを継承したのが水戸光圀編纂『大日本史』であり、いわゆる「後期水戸学」に受け継がれた。
南朝正統論の根拠は『大日本史』では「三種の神器を持っている側」というものだった。しかし、足利義満の時に南北朝合一がはかられ、その後は北朝の血筋が受け継がれて明治天皇になっていた。明治天皇は北朝の天皇を祀っていた。素直に考えれば、明治天皇は正統ではない北朝の血筋だったからだ。そこが南朝正統論の悩みのタネでだった。
しかし明治天皇の王政復古(神武創業に還る)に対して、後醍醐天皇は王政中興の天皇であり、それも正統を考える条件になっていた。ここから「天皇親政が正しい」という政体論も出てくる。
また忠臣楠木正成は維新の尊王家憧憬の武将であり、北朝の足利尊氏はあくまで逆賊だった。
そういう次第なので、明治新政府の正統性問題もいささかねじれていたことになる。
明治37年(1904)4月から使われた第一期国定教科書にはこう書かれた。
「これより同時に二天皇あり。吉野の朝廷を南朝といひ、京都の朝廷を北朝といふ。かくて宮方、武家方の争いは、つひに、両皇統の御争いの如くなれり」
正統の決定はせず、南北朝並立、天皇は二人いたという記述である。
宮内省でも基本方針は定まっていなかった。同じ年の5月に「歴代天皇調査委員会」が開かれた。ここで以下のことが決まる。
・神功皇后は天皇ではなく皇后とする。
・大友皇子は弘文天皇して歴代に加える。
ここで、安徳天皇・後鳥羽天皇並立問題と、南北朝並立問題が検討されたが、結論は出なかった。
委員の意見分布はこうだった。南北両統説(3名)、南朝正統説(2名)、無説(1名)。
宮内省が決められない問題を文科省が決めるわけにいかなかった。
ただ、このときは問題にはならなかった。まさに日露戦争のさなかだった。
第二期国定教科書は明治43年(1910)の4月から使用された。小見出しは「南北両朝の対立」とされ、本文は第一期の方針が守られた。このとき教師用指導書もつくられ、そこに「容易に南北両朝の正閏を論ずべきに非ざるなり」とあった。これが現場の教師や師範学校の教授たちが問題にすることになった。これはわれわれの常識と違うではないか、というわけだった。
1910年は大逆事件が起きて教育が問題になっていた。これに野党立憲国民党の思惑が重なり、さらに在野の官僚批判・学者批判や後期水戸学の継承者たちが加わり、「南朝正統論」をしっかり教えろ!というかたちで政治問題になっていった。
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