(全回の補足)
小学校の教科書には出てきませんが「南北朝時代」も1時間の授業にしてあります。
これは日本の歴史の中でもとても特殊な時代でした。南朝と北朝が並立し天皇が二人いた時代です。安徳天皇と後鳥羽天皇の時もそうでしたがそれはほんの一時でした。南北朝時代はそれが半世紀以上続いた不幸な時代でした。
鎌倉幕府の滅亡と室町幕府の成立を扱いましたが、いわゆる「皇国史観」とは異なるストーリーになっています(忠臣と逆臣の物語にしていない)。
この授業の考え方については、明治末の「南北朝正閏論」問題とからめてまた後日書いてみたいと思っています。
(ここから本稿)
ぼくの経験では、頼朝の発問でAの立場(天皇を滅ぼす―自分がテッペンを取りたい―実力者中心の国―中国方式)を選んだ子どもたちも、明治維新と明治の国づくりの授業までくれば、全員が「そうか!やっぱり天皇中心の国はスゲーな!」となりました。
(注)「足利義満の授業」では「天皇にとって代わりたかった将軍がいたんだ!」ということと「やっぱりそれは出来ないんだね!」ということを学びます。
明治維新と明治の国家建設では、「強いものが勝つ時代」でも武士たちはBの【天皇中心の国】を選び続けてきた、その歴史のメリットが大爆発します。「天皇中心の国」が日本史最大の危機を救うからです。
幕末と近代日本の国づくりの成功をよく理解するためには、ここまでの「天皇中心の国の歴史」を学んでおくことが欠かせません。それがなければ、「尊王攘夷」も「大政奉還」も「大日本帝国憲法」も子供たちには理解できません。
ただ言葉の上っ面を追いかけるだけの学習になってしまいます。
明治日本の中央集権制のモデルは古代律令国家日本でした。
その天皇が19世紀になっても将軍を任命する「権威」として残っていました。千数百年の血筋の継承が誇る力でした。
あのとき日本に天皇という中心がなかったらどうでしょうか?
薩長と幕府の内戦はどちらかが滅びるまで続いた可能性があります。内戦が長期化すれば英仏が介入して悲惨なことになり、日本は西洋列強の食い物にされていた可能性があります。
また天皇がいたから国家建設も急速に進みました。明治のリーダーたちも天皇の神話的な価値(国民を統合するパワー)をよくわかっていて、それを国民形成のために生かしました(メディア・神道・教育など)。天皇という中心が、運命「共同体としての国家」を一人一人の国民の目に見えるようにしました。天皇が国民を結束させ、危機を乗り越えていくエネルギーになりました。
天皇がいたからこそ、近代的な国民としての共同性を短期間で確立することができたのです。いわゆる上からの近代化には不可欠な条件だったと思います。
天皇中心の国民国家が傭兵国家よりも圧倒的に強いことは、日清戦争と日露戦争という二つの戦争が証明します。これはナポレオン軍の強さと意味合いはまったく同じでした。
そして列強の一角に勝利しなければ日本が西洋列強と対等な独立国になることはなかったことでしょう。
国のテッペンを血筋で選び続けてきた世界の例外日本。B方式「天皇中心の国」日本の勝利でした。アジアで唯一の近代国家の成立の原動力こそ「天皇」だったのです。古代以来日本が「天皇中心の国」という国のかたちを守り続けてきたからできたことでした。それがわかるような「天皇中心の国」の学びがあったからこそ「日本はやっぱりスゲーな!」という冒頭の感想が出てくるわけです。
戦後の急速な復興の原動力も「天皇の国日本」という神話的な物語でした。それを担ったのは戦前の「皇国史観」の下に戦争を生き残った国民でした。
にもかかわらず彼らの次世代以後の私たちは戦前の「国民統合の物語」を丸ごと捨ててしまいました。「いわゆる皇国史観」のデメリットばかりにとらわれて、その意義を忘れてしまったからです。
そうして「国民の物語」そのものを全否定してしまいました。それは「ナショナリズム(国家であること)」を国民レベルでは全否定したほうがいいという考え方でした。そろそろその誤りを克服する秋が迫っています。
「天皇」を理解することが「日本」を理解することにつながるのだと考えています。
ただし、問題はそれを「どう教えるか?」です。
「日本が好きになる!歴史授業」では、戦後「天皇は教えない」としてきた80年間を疑問として、具体的な授業のかたちで一つの提案をしてきました。
戦後教育は疑問だが、戦前の教育に戻ればいいという話ではない。そういう一つの立場を示しました。これを叩き台として若い先生方に前進していただければ幸いです。
それは教育のみにとどまらず、国民の一人として、戦前のいわゆる「皇国史観」をどう克服するのか?第三の国づくりのパワーとなりうる新しい「天皇中心の物語」をどう構想すればいいのか?という、たいへん大きな課題だと考えています。
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