戦前の教科書の乙巳の変の記述はこんな感じです。明治44年(1911年)版「尋常小学校日本歴史」です。余談ですがまだこの時代は「日本歴史」ですね。
(注)明治33年制定の小学校令は、当初教科目名を日本歴史としていた。 しかし、大正9年からの国定教科書改訂 で、教科書の書名が「日本歴史」から「国史」に変更され (『日本教科書大系』近代編20)、 大正15年の小学 校令改正 (勅令第73号)で、正式に「国史」が教科名となった。つまり「国史」は昭和の強化名だったのですね。敗戦後国史が廃止になり、社会科(歴史的分野)になった。
「蘇我馬子の子蝦夷、蝦夷の子入鹿も相次ぎて無道のふるまい甚だ多かりき。殊に入鹿の如きは皇極天皇(第三十五代)の御代、おのが好める皇族を御位に即け奉らんがために、聖徳太子のご子孫を滅ぼし、遂には皇位をも恐れざるに至れり。中臣鎌足之を見て大いにいきどほり朝廷の御ために入鹿を誅せんとす。天皇の御子中大兄皇子また蘇我氏の無道なるをにくみ給へり。・・・相はかりて入鹿と蝦夷を誅したり。・・・あたかも一千三百五年にあたれり。」
実際の授業がどうだったかはわからないが、蘇我の親子は皇室に無道なふるまいをした悪人であり、中大兄皇子と中臣鎌足に誅されるのは当然という流れになるでしょう。皇室をないがしろにする悪は滅び、正義はおのずから達成されて「天皇中心の国」(国体)は守られた。めでたしめでたしとなります。
戦前はそれでよかったのでしょうが、ぼくが授業をつくり始めたのは日本国民が「天皇中心の国」という国民の物語を失って半世紀過ぎていました。建国神話を初めて学び、大和朝廷と現在の象徴天皇制との連続を知ったくらいでは間に合わないと思いました。それでもここで「天皇中心の国」という物語を当然の前提のように進めることはできないことではないかもしれません。が、それをお話し能力の低い私がやってしまっては、子供たちの納得は得られないし、彼らの知的な能動性を押さえつけることになると考えました。そこでこういう方針を立てました。
「天皇中心の国」は神話や神勅で決まっていて臣民である日本人はそれを受け継いできただけだという歴史観は置いておくことにしました。長い歴史の中で、多くの先人が対立や葛藤を乗り越えながら「天皇中心の国」を選び取ってきたのだと考え、そういうストーリーの授業をつくることにしました。試行錯誤がありましたが、最初に「これだな!」という感触を得られたのがこの大化の改新の授業でした。
【問題】みなさんは当時の大和朝廷のリーダーの一人です。日本をどんな国にするのか。AかBのどちらかを選んで理由を書きましょう。
A 実力者(いまは蘇我氏)中心の国
B 天皇中心の国(血筋を守る)
Aは世界標準の立場です。
実力のある強いやつがトップに立つ。当り前じゃないか。チャイナでもヨーロッパでもその他の文明でも世襲の王朝はいずれ交替します。実力(能力及び武力など)で次の王朝が決まります。王は貴族や異民族にその地位を奪われ、皇帝も家臣や異民族に滅ぼされます(易姓革命)。地球上、日本以外の地域ではこれがスタンダードな歴史でした。
Bはおそらく日本だけの立場です。
日本だけが「世襲される天皇中心の国」が2000年続き今日に至っています。文明化したとき、統一国家が生まれたときにすでに天皇があり今日まで「男系」で継承された来ました(または、そう考えられてきました)。滅ぼされたことが一度もない。天皇だけは血筋を継承してもらう。天皇だけは実力主義で選ばない。その思想を皇族ではない中臣鎌足が支持し協力しました。
この問題で、子供たちは朝廷のリーダーたちの一人として「日本の在り方」を考えます。現代日本の情報環境と5年生までの全学習を通しても、子供たちはまったく「天皇」知りませんし考えたこともありませんでした。小学校では入学以来5年生まで授業で「天皇」は出てきません。わずかに国語の平和教材「小さな花」にマイナスイメージで出てくるくらいでしょう。子供たちはこの授業の数時間前に、大和朝廷の日本統一を学び、建国神話を知り、聖徳太子の大方針②「天皇中心の国」を学んだばかりでした。
どんな意見分布になるかとても楽しみでした。最初の大宮市立島小学校では、Bが多数派になりAは少数派でした。ある場合はAが一名しかいないという場合もありました。この授業結果はある意味で驚きでした。数時間、授業に天皇が出てきただけで、すでに子供たちのほとんどが世界の例外である「日本人」になってしまったのでしょうか?
子供たちは、天皇以外のリーダーは冠位十二階のような実力主義で選ぶのがいいと考えています。家柄や身分でリーダーを選んでいたら日本はダメになってしまいますと言います。しかし、多くの子供が天皇だけは例外だ。「血筋」で決めようと考えたのです。その理由はさまざまでしたが、大きく括ると次の二つです。
・与えられた資料が蘇我の横暴とく聖徳太子一族を滅亡させたことを語っていて、聖徳太子が好きになった子供たちには許せなかった。多くの児童はこの立場でした。しかしこの考えだと、蘇我氏じゃない場合、いい人で本当の実力がる場合が出てきたらまた別の話になる可能性を含んでいますね。
・もうひとつはトップを実力主義にすると「○○氏中心の国にするために戦争を繰り返すことになる」という理由です。戦争は国のトップを変えるためだけに起きるわけではないので「資料」としては若干問題がありましたが、日本の歴史を見渡してみるとこれは意味のある理由になると考えました。ただし、この理由を理解して発言できる児童は多数派の中の少数でした。
その後の中学校での実践も含めて、可能性のある意見は前回書きましたので参照してください。
「日本が好きになる!歴史授業」も広い意味で皇国史観に入るといいましたが、たぶんこういう学習場面は明治から敗戦までの皇国史観にはなかったはずです。蘇我氏を「天皇」にしてもいいという立場で子供たち意見を述べるなどというがことは許されなかったと思われます。日本は神代の初めから天皇の国であり「逆族」は常に悪玉として滅ぼされます。それが自然の成り行きであり正しいと考えるのが戦前の皇国史観の考え方でした。
(注)もちろんそれが、日本を近代国家にし、大国との戦いに勝利して西洋列強と相並ぶアジアの大国をつくった、国民教育のエンジンでした。未完成に終わった「国家神道」もその国民教育を支えました。最終的には大東亜戦争の敗北で、すべて失敗だったかのように考えられがちですが、少なくとも第一次世界大戦までの日本にとっては大成功だったといって差し支えないと思います。この点の検討はまたいずれやります。
皇国史観が幕末以来の国づくりに大いに貢献した事実は認めたうえで、1990年代のぼくは考えました。どうもこれ(歴史上のいわゆる逆賊:皇室に歯向かったとされる者たちを一方的に悪として教えること)は自分の考える「日本らしさ」とはちょっと違うような気がすると。また聖徳太子の大方針とも少し違うような気がすると。これはきわめて一神教的な「排除の思想」ではないだろうかと考えたのです。
以下、それについて少し述べます。
日本人がこういう考え方に出会い初めて出会い衝突したのは16世紀でした。具体的には豊臣秀吉から徳川家康・家光の「南蛮との衝突」でした。具体的にはカトリックという「排除の思想」と「日本らしい共存の思想」は共存できず、やむなく日本は「カトリック信仰を排除しました(禁教)」。
「神と仏の全滅」をめざしている敵と戦うためには、その立場と共存することはできなかったのです。この場合は(仏教伝来のときとは違って)敵を排除するしかありません。カトリックが「神と仏」を排除して日本をカトリックの国にしようとしてくるわけですから、「神と仏」を守るためにはカトリックを排除するほかなかったのですね。
(注)このことに気づかせてくれたのは6年生の子供たちでした。これについては後程また書きますが、自分にとっては実に盲点だったので気づくまで何年か時間がかかりました。
カトリックを排除した徳川幕府が、中華漢字文明の一神教ともいうべき朱子学を正学(官学)としたことには思想的な関連があるのではないかと考えています。朱子学の影響が、後醍醐天皇~江戸幕府~幕末の尊王攘夷~神仏分離~国家神道というつながりで見えてきます。
強い秩序を維持するための中央集権国家の確立には、古代以来の「共存の思想」では間に合わなかったのではないでしょうか? たぶん、強烈な「効果」を発揮する思想には強烈な「毒」も含まれているのでしょう。
おっと、また横道にそれていますね。大化の改新の授業の成功を経て。頼朝と鎌倉幕府の授業をつくることなりました。次はそれについて書きます。
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