これまでのことなど (年表的)



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私的な記録を含みますが、いまかかえているいろいろなテーマにかかわりがあり、「日本が好きになる!歴史全授業の出自にもふれることになるので、無意味ではないと考えて掲載します。

昭和20年に世界戦争が終わり21年から24年にかけて世界中で大量に赤ん坊が生まれた。欧米ではベビーブーマーといい日本では団塊(の世代)という。栢山村で生まれ、東十条・船橋・御殿場と移り住み、大宮の公立小中から浦和高校・立命館大学人文学部史学科にすすんだ。


いろいろあって大学は1年で中退。しばらく放浪していたが結局大宮に戻り競輪場に勤めた(アルバイト~審判~レース編成)。5年。その後本が好きらしいからとすすめられて、小岩の駅ビルにあった弘栄堂という本屋に勤めた。これも5年。それで20代が終わった。本屋時代が終わるころ強くプッシュする人があって通信教育の明星大学に入学、2年で教員免許状をもらった。目的は達成したので再び大学は中退した。1981年の春だった。

小学校からどちらかといえば学校も教師も嫌いだったが、本屋にも飽きてしまいこのまま生きていくためには「このノーミソでもできそうな仕事」を探す必要があった。体力もなく手先も不器用で身体を使って生きられるとは思えなかった。免状をもらって本屋は退職したが「産休代用教員」には雇われなかった。履歴書が悪すぎたから。アルバイト(味噌の訪問販売)をしながら待った。2年目にやっと雇われた。臨時採用の待遇はあんまりだったので採用試験を受けた。続けて4年間落ち続けた。しかし5年目でやっと採用になり大宮市立大成小学校に赴任した。1984(昭和59)年4月だった。もう30代も半ばになっていた。

教師は競輪の審判よりも本屋の店員よりも(ぼくには)難しかった。市内の同期の教員(全員12歳下だった)に呼びかけて勉強会をつくった。そのメンバーに書いていたサークル通信が縁で藤岡信勝先生(当時東大教育学部教授・教科研授業づくり部会)と知り合い、月刊『授業づくりネットワーク』の執筆・編集にかかわるようになった。楽しくてよくわかる授業をつくる運動に参加する形だった。「異質な考えとの交流」をうたい「党派的な考えをやめよう」というのが裏テーマだった。日教組のなかの改革派グループだった。

「教師」というありそうもなかった立場にも慣れてきて、「授業をつくる」面白さもわかり、三流のノーミソにも人並みの人生がめぐってきたように思えた。世間に受け入れられている安穏な生活に感謝していた。妻のおかげだった。

教師になって6年後(平成元年)ベルリンの壁が崩壊した。ぼくはずっとワレサを応援していたので快哉をさけんだ。プラハの春以来ずっと東欧の自由化の動きを応援してきたからだ。冷戦が終わりソ連共産党国家も崩壊した。人類史の最も喜ばしい出来事が続いたのになぜか鬱になった。授業がつくれなくなった。アイデアも湧かない。

「冷戦は永遠に続く」と思っていたようだった。それが終わってしまった。米軍はソ連共産主義から日本を守るのに主敵が消えてしまったのだ。米国はもう日本を守らなくてもよくなった。日本は自分の足で立たなければダメだろう。冷戦を前提としてできていたすべてのこと(戦後)が見直されなければならなかった。日本はこれからどうなるんだろう。「楽しくてよくわかる授業」なんて呑気な教師でいてはダメなんじゃないか?教育がこのままじゃダメだろう。それが現状の教育内容で授業をつくれなくなった理由だった。

悶々としていたところに藤岡さんがアメリカから帰ってきて答えをくれた。
「歴史をやりませんか」それと「日本の教育に議論の文化を」
なるほど、それならばまだ授業をつくる意味がある。
日本が本当の意味で自立した国になるための歴史教育をやろう。

1993(平成5)年「近現代史書き直しプロジェクト」発足。翌年新設の春野小学校に転勤。藤岡さんが『社会科教育』誌に「近現代史の授業をどう改造するか」の連載を始め「自由主義史観」という立場を打ち出した。大賛成だった。
1995(平成7年)自由主義史観研究会発足。9月季刊誌『近現代史の授業改革』(明治図書)創刊号発行。

11月19日、日本教育技術学会千葉大会で、ぼくは最初の授業「大久保利通と明治維新」を発表した。明治の国づくりにおける大久保利通の意義を打ち出した。「日本が好きになる!歴史授業」の第一作だったが、反響はなかった。

1996(平成8)年1月から産経新聞紙上で「教科書が教えない歴史」の連載が始まり反響があった。8月『教科書が教えない歴史』(産経新聞)発行。ベストセラーになった。8月10日第一回自由主義史観研究会全国大会(蔵王) 新しい歴史教科書をつくる会発足
1997(平成9)年春野小で6年担任になり、「日本が好きになる!歴史授業」に初めて取り組んだ。全体としては未熟な内容だったが、骨格になる授業(仏教伝来・白村江の戦い・キリスト教伝来・明治維新など)ができた。通史の授業になるという見通しを持って隣の島小学校に移った。

1998(平成10)年文科省の学習指導要領の改訂があり、小中の歴史学習の目標に「国を愛する心情を育てる」「国民としての自覚を育てる」がうたわれた。あわせて建国神話を教える・天皇への理解と敬愛の念を深めるなど有意義な内容が書かれた。1980年以後の教育の左傾化に明確に歯止めをかけた重要な改訂だった。のちに安部さんや中川さんなど自民党の教科書議連の働きと知った。これは孤独な「日本が好きになる!歴史授業」にとって百万の味方を得た思いだった。しかし各地の教育委員会は文科省官僚に忖度して、指導要領改訂の伝達講習会でこれらの言葉をすべてスルーして見せた。質問にも答えなかった。これが官僚の政治であり、法ではなくお上に従う日本の公務員だった。

2000(平成12)年島小学校で6年担任になり歴史授業を実践(まほろば一代目)導入の「ご先祖様の授業」や「東京裁判の授業」ができた。二回の国づくりと聖徳太子の三大政策を柱とする物語もできた。これが現在の「日本が好きになる!歴史全授業」の原型になった。この年つくる会の中学校歴史教科書が検定に合格し採択戦に挑んだ。狂気じみた左翼の攻撃(テロを含む)のせいで栃木県などで決まっていた公立中学校の採択がつぶされてしまった。その後の展開を考えるときこの最初の「戦争」に左翼があれほど死に物狂いになったわけがわかる。

2002(平成14)年 まほろば二代目に歴史授業を実施した。このとき仕上げともいえる5つの時代区分(カリキュラム)ができた。
2003(平成15)年7月30日『学校でまなびたい歴史』(産経新聞)刊行。教育界からは反響がなく、社会科教師からも黙殺され、読んでくれた教師の話も聞かなかった。「終わった」という気分だった。が、この出版の作業を進めながらいろいろな収穫もあった。

戦後の社会科歴史教育の問題点が整理されてきた。当初は東京裁判史観の克服がメインテーマだったが、「天皇の国・日本」とい・大きな物語をどう再生するのか?という新しいテーマが生まれた。ほとんど勉強していない分野だったのだが、これは戦争をめぐる自虐史観よりもある意味で重要だと思えた。そして大東亜戦争自虐史観と反「皇国史観」はある意味で問題の表裏の関係にあった。
ただぼくは学者的なアプローチは苦手なので、個々の授業をつくりながら考えを進めていくことにした。広い意味での新たな皇国史観の探求だったので研究会でも問題意識を共有できないかと考えて提案もしてみたがダメだった。戦前の「皇国史観」にたいするアレルギーは仲間のなかでも相当深いものがあった。

2007(平成19)年までさいたま市立芝原小学校(浦和)に転属。中学年の配属が多く6年生の歴史を授業できたのは一回だけった。定年の2前だったが芝原小学校を退職して三重県桑名市に単身赴任。津田学園中学校と小学校で2年間歴史を教えた。その後南浦和の浦和実業学園中学校の社会科講師になり定年(65)まで5年間歴史を教えた。この二つの中学校はつくる会の教科書を採択していたのでつくる会の教科書による授業実践ということができる。最後の7年間は昭和の戦争をつくることに費やした。小学校の指導要領に従うと教材化の時点ですでに難しいものがあったから。中学校なら第一次世界大戦から大東亜戦争まで戦争の教材化が可能だった。それが定年間際になって中学校のコンバートした理由だった。

2014(平成26)年3月、渡邉尚久さん(当時千葉県教委)と会い歴史授業講座を頼まれた。その年船橋で3回実施した。現役の教師30名ほどが参加し熱心に聞いてくれた。こんなことが生きているうちにあるのかと涙が出た。翌年市立中学校もとうとう定年を迎えた。船橋・市川での授業講座は3年ほど続き、その後は地元のさいたま市に移って続けた。

渡邉先生がいなければぼくの授業実践が現場の先生方の手に渡ることはなかった。教育界とくに社会科教育界では孤立無援で排除の対象だったからだ。教師も公務員でありお役人の一翼だから危うきには近寄らないのが正しいんだろう。渡辺さんだけが例外だった。


ナマケモノのぼくに『日本が好きになる!歴史全授業』を書かせたのも、授業で使うスライドをつくらせたのも、18年も昔の『学校でまなびたい歴史』を復刻し『新版 学校で学びたい歴史』(青林堂)として刊行してくれたのも渡邉先生だった。どこからこういう人物が現れたのかいまだに不思議でならない。
この流れで、次々と現場の先生方に広がり「日本が好きになる!歴史授業講座」は10年も続き昨年いったん終了した。

 


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この記事を書いた人

昭和24年、埼玉県生まれ。昭和59年、大宮市の小学校教員に採用される。大宮教育サークルを設立し、『授業づくりネットワーク』創刊に参画。冷戦崩壊後、義務教育の教育内容に強い疑問を抱き、平成7年自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)の創立に参画。以後、20余年間小中学校の教員として、「日本が好きになる歴史授業」を実践研究してきた。
現在は授業づくり JAPAN さいたま代表として、ブログや SNS で運動を進め、各地で、またオンラインで「日本が好きになる!歴史授業講座」を開催している。
著書に『新装版 学校で学びたい歴史』(青林堂)『授業づくりJAPANの日本が好きになる!歴史全授業』(私家版) 他、共著に「教科書が教えない歴史」(産経新聞社) 他がある。

【ブログ】
齋藤武夫の日本が好きになる!歴史全授業
https://www.saitotakeo.com/

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