ここまで書いてきてわかっていないことが多すぎるなと感じています。あとからあとから知らないことや勉強しなければならないことが湧いてきています。が、おおっぱな話になると思いますが、とりあえずこのテーマで書いておきたいので続けることにします。間違いがあればまた後で正すことにします。
幕末の武士たちはいま私たちが考える「近代化」をめざしていたわけではありません。西洋の世界侵略とアジアの植民地化の大波に抵抗して独立日本を守り抜くという志でした。そういう現状の中で国学やその影響を受けた儒学から後期水戸学が生まれ、それが幕末志士たちの共通言語になりました。合言葉は「尊王攘夷」です。それを推し進めた結果として「近代化」を進めることになったのです。
当時世界の潮流だった近代化とは政治的には「国民の国家」をつくることでした。封建制度のもとで80%の民衆は国家のことなんか考えていません。西洋も日本も同じでした。その民衆を国民として国家に統合するためには「中心」が必要です。イギリスは王室、王を殺したフランスは皇帝(ナポレオン)、わが国の場合は、それが2000年の伝統を誇る皇室(天皇)だったわけです。中心を持つ共同体だからこそ一君万民の国民が生まれます。それが国家の一員として国家に参加する「国民」です。
つまり、日本は(万世一系の)天皇中心にひとつにまとまってきた国だったからこそ近代化が可能だったといえるのです。260年続いた徳川幕府が滅びても、すぐに新政府が立ち上がり国家を統合できたのは天皇の伝統なしにありえないことでした。
この大転換は国体論(皇国史観)の勝利でした。天皇への忠義が優位に立てば将軍や殿様への忠義は二の次になります。あとは80%の国民を天皇の忠臣に育てることが「日本国民」を育てることになりました。明治初期の国家神道への志向もそれが背景にありました。
この日本近代化への第一歩は「王政復古」から始まりました。国学・後期水戸学がこの変革のエートスでしたから「からごころ」さえ廃棄して、仏教以前の日本、神武創業・祭政一致・天皇親政の理想に還ろうというスローガンがうたわれました。
しかし、それやってしまっては西洋の国家社会制度の生産性に追いつけません。経済力・軍事力で対等の力を持たなければ日本の独立はあり得ません。そこで「攘夷」はそのうちいつかやることにして怒涛の「文明開化」に舵を切ります。この流れは古代の律令国家成立期とまったく同じです。あのときは唐の漢字文明でしたが、今回は西洋の近代文明です。まさに日本の宿命でした。
このとき、後期水戸学の国体論(皇国史観)を修正して文明開化(日本的西洋文明)に統合していくことが、かつての聖徳太子の戦略だったわけですが、そのことに自覚的に取り組む人物は現れませんでした。強いて言えば伊藤博文などがそれを志向していましたがなかなかうまくいきませんでした。西洋化でいいじゃないかというグループといや王政復古の理想を守りたいうグループに分かれて何かあるたびに対立が表面化する流れができます。
たとえば西洋化のひとつの到達点だった立憲政治の導入は不平等条約改正の絶対条件でしたから両派とも受け入れました。しかし「しらす」にこだわった井上毅はあくまで天皇親政の原則を守ろうとして「内閣や議会による輔弼」という規定をはずそうとします。伊藤博文は天皇親政では天皇に政治責任が及ぶことになりダメだと退けました。結局「輔弼」の条項は生かされて天皇は輔弼に従って統治権を行使することになりました。実質的な政治権力は議会と内閣にある憲法ができ上りました。これが大正デモクラシー、政党制ににつながりました。
大日本帝国憲法で近代化の指標である「国民」が法的に成立し、その4年後の日清戦争で「実質的な国民」が誕生します。徴兵によって戦争に参画したふつの国民が海外に派遣されて国家のために戦い大勝利したのです。その10年後の日露戦争では徴兵年限の国民の5人に一人が国のために戦い大ロシア帝国に勝利しました。近代的国民の軍隊(天皇の軍隊)は強いのです。ナポレオン軍が圧倒的に強かったのと同じでした。士気が違います。
近代化の究極である国民の育成は何よりも「国のために戦える国民」の育成でした。そのために学校教育で国体論(皇国史観)を国民が共有できた意義は大きいものがありました。「西洋化」と「復古」は分裂であると同時にお互いに支えあう関係でもありました。
戦後の教育界では「教え子を二度と戦場には送らない!」という極端が広まって、「国のために戦う国民」を育てることが悪いことのように言われてきましたがそれは間違いです。団結して国のために戦う国民の国になったからこそ、日本は植民地にもされず、近代化して独立国家になり、西洋列強と対等に交際できるようになったのです。日本がそれをやりとげたことがアジアやアフリカ諸国の独立にもつながりました。
(つづく)
コメント