今年の大河ドラマ「光る君へ」は気に入っています。去年はドラマ部分についていけずに早期に見るのをやめてしまった。今年は歴史とドラマの配分が共感できる範囲に収まっていてストーリーもよくできている。やはり脚本家の腕しだいというところなのでしょう。今年は白石静です。
ここでぜひ紹介したいのが敬愛する白駒妃登美さんの解説動画です。第1回から毎回ずっとYouTubeで公開されています。ぼくは途中からこの動画を知ったのですが、一から全部見直しました。各回面白くて、ドラマを理解するために欠かせなくなったからです。また、小中学生用の歴史授業をつくり紹介していますが、ぼくは歴史知識は小中学生レベルなので、平安時代がよくわかるなあと毎回感動しています。
ただ正直言うと、白駒さんの解説動画はとても深くてひとつひとつに学問の裏付けがあるので、教養のないぼくはいちいち止めながらググってはまた見るというふうにしないとついていけません。ただ動画の流れが止まってしまいそれも楽しくないので、ふだんはついていけなくても「そうなんだ」とやりすごしながら見ていますが。
そこで今回はひとうひとつノートをとって実はどんなお話になっているのかを紹介してみようと思います。というか、自分のために勉強してみます。みなさんは読まないで動画を見て、高評価・番組登録をお願いします!
『光る君へ』第12話「思いの果て」
この回はいきなり「いやー!もう切ない!切なすぎる!!」という白駒さんの絶叫?から始まります。こういう物語への浸り方がそこいらの学者先生方の「解説」とは違って、白駒さんの解説が知識に終わらず「いいな」と思えるところです。
まひろは「妾でもよいから」と道長に打ち明けようとしますが、道長に左大臣家の倫子に婿入りすると伝えられて何も言えません。まひろは「妻が倫子では自分は妾にはなれぬ」と思い定めます。悲しい夜でした。
まひろは倫子とはお互いを認め合い共感しあう親しい友人です。しかも倫子は学識以外はまひろの持っていないものすべてを持っています。天皇家の高貴な血筋・父親の身分と経済力・両親の深い愛情・上流階級の中で育まれた気品と思いやりの心・誰に対しても分け隔てなく接しその人の本質を見ようとする伸びやかな性格・学問は好きではないが人が生きる上で大切な知性は十分持つ・愛する人へのまっすぐな心・・・今回は源倫子平安女子最強伝説が誕生!
娘の視点に気づかされたこと
・お嬢さんの言葉から漫画と現実についてのリアリズム・エピソードを紹介します。
(回文)「よのなかねかおかおかねかなのよ」
マンガではブスだけど性格のいい子が主役で美人で頭のいい子がライバル(貧乏で性格のいい子とお金持ちで意地悪な子も)だが現実はそうでもない。美人で頭のいい子が性格もいいしお金持ちにも優しい人が多いよ。・・・・すべてに恵まれた倫子がこの典型ですね。優越感にも劣等感にもとらわれず自分の道をまっすぐ歩む強さ。まひろの敗北感は深い。
紫式部には姉が実在した(為時が越前に赴任する前に他界)
まひろはなぜ前回の「妾は堪えられない」から「妾でもよい」という気持ちになったのか?父為時の病床にある妾なつめに対する甲斐甲斐しい態度を見た。そして娘さわとの出会いと交流もあったからでしょう。
ドラマでは惟規との姉弟という設定だが紫式部には姉がいた。為時が越前赴任前に他界。母を亡くした紫式部はこの姉を頼っただろう。同じころ姉妹の契りを結んだ友:筑紫の君(姉君とよんだ)があった『紫式部集』。肥前と越前で文通を続けたが会えずに終わった。さわとの交流はこの筑紫の君との交流がもとになったのでは?
紫式部が姉のように慕った筑紫の君(父に従い肥前の国へ)
筑紫の君:西の海を思いやりつつ月見ればただに泣かるるころにもあるかな(筑紫に行く西の海を眺めるとわけもなく涙が出てしまうわ) 紫式部の返歌:西へ行く月の便りにたまづさのかき絶えめやは月のかよひぢ(わたしが月に託して西へに送る便りが絶えることはありませんよ 雲の通い路があるかぎり) 百人一首の歌も筑紫の君へのものだったらしい。めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな(これは男だとばっかり思っていたが!)筑紫の君に紫式部は筝を教えた。ドラマではさわに琵琶を教えているね!(筝と琵琶は奈良時代に唐から入ったが、琴はそれ以前の日本にあった。弥生時代の遺跡から出る。)
実資が妻に迎えた婉子(つやこ)女王
ここで宣孝(のちに夫になる)がまひろに持ち込んだ縁談の話。相手は藤原実資。ちょうど妻を亡くしていたのでありうるが、これは史実ではないようです。実資は日記に「鼻くそのような女との縁談あり」と書いていたね。(解説)『小右記』にこんな記述があるのかどうかは動画では触れていませんでしたが、史実の解説がありました。この時期実資は婉子(つやこ)女王を妻に迎えた。婉子女王の父は村上天皇の皇子母は醍醐天皇の孫。仲睦まじかったと伝えられるが27歳で亡くなってしまう。この実らなかった縁談話はのちに実資と紫式部が仕事上の交流があるからその伏線だろうということです。「光る君へ」にはこうした絶妙な伏線が散りばめられていて素晴らしいと目利きの白駒さんが言っています。
『栄花物語』によると
源倫子が道長の正妻に収まる話は『栄花物語』が下敷きになっています。ドラマでは倫子の強い恋心を前面に出していてためらう父雅信という設定ですが『栄花物語』では道長の方が猛プッシュしたことになっています。が左大臣は「嘴の黄色い若造」と却下。道長は摂政の子とはいえ五男ですから出世のみこみはなさそうだったからです。が以前から道長に目をつけていた母むつ子に「この君は只者ではない」と説得されます。道長はこのことをむつ子に生涯感謝し尊重したことが『御堂関白記』に見えるそうです。これは上流貴族の結婚について母親にも発言権があることがわかる事例です。
明子の父源高明は光源氏のモデルの一人
ドラマではこれと同時に姉の詮子が源明子との縁談を進めている。史実だがどちらの婚姻が先かは研究者で意見が分かれている。倫子は宇多天皇の孫。明子の父源高明は醍醐天皇の皇子。が母は女御ではなく更衣だったので源の姓を賜って臣籍降下した。これは『源氏物語』の光源氏と同じなので源高明はモデルの一人と言われている。
高明は969年藤原氏の謀略で失脚した(安和の変)。左大臣を解かれて大宰府に左遷された。光源氏も須磨に蟄居するがこの日付が3月20日過ぎと書かれていて、高明の左遷の日付(3月26日)と符合する。紫式部が源高明を強く意識していたことが伝わってくる。ドラマでは散楽師たちが最初に演じていたのが安和の変でした。「このドラマ。ボーっと見過ごしていい場面などほとんどありません!手の込んだ脚本です」
明子の母愛宮は藤原兼家の異母妹
明子の母愛宮は道長の祖父師輔と醍醐天皇の皇女との間に生まれた。だから愛宮は道長の父兼家と異母妹であり道長と明子はいとこ同士です。母も祖母も中流貴族の道長に対して明子は父からも母からも皇室の血を受け継いでいる。高貴さが違う。ドラマでは姉の詮子が話を進めているが『栄花物語』では・・・明子には道長の兄道隆をはじめ多くの男性が求婚した。が道長は明子の女房を手なずけて明子と恋仲になり姉の詮子がこれを認めた。その翌年道長は倫子の婿になった。明子や母の愛宮には道長が心変わりしたと映った となっています。
そんな道長を愛宮が詰った歌が『拾遺和歌集』にある。
年を経てたちならしつる葦鶴(あしたづ)のいかなる方にあととどむらん(いつもやって来て慣れていた鶴なのにどこに行っちゃったのかしら)
夫の装束は妻の家で用意する習わし。道長の足袋を仕立てる足型は明子の家にあった。こんどは倫子が足袋を仕立てることになったので道長が使いを寄こす。愛宮が歌で嫌味を言ったわけです。道長と明子は6人の子宝を授かったが、ドラマで明子は安和の変の恨みを晴らそうと兼家を呪詛していて怖い。安和の変の首謀者は藤原兼家ではないのでこれはドラマの設定です。
高貴な血筋の二人の妻。婚姻もほぼ同時期。が父が失脚して非業の死を遂げている明子は北の方にはなれず子の扱いなど何かにつけて割を食う。白駒さんはドラマの明子に六条御息所のような情念の炎を燃やす女性という設定ではないかと予想している。
倫子と明子との婚姻が道長の栄華の礎になる
源倫子と源明子との結婚は藤原道長の栄華の礎になった。この姫君たちは道長に高貴(天皇)な血統を与えた。その高貴な血が二人の兄たちの娘にはない魅力を道長の娘たちにもたらした。道長の娘たちは天皇との結婚に値する高貴な娘になった。これが二人の兄との熾烈な権力闘争に勝利する鍵になる。道長はそれを分かっていたし、嫡妻の倫子もよく理解していた。こうして道長は父が築いた兼家ブランドから独立して道長ブランドを確立できる。倫子はその共同経営者になる。
庚申待(こうしんまち)
まひろは「妾でもいいから」と言い出せず道長さまと私はたどる道が違う。私は私らしく自分の生まれてきた意味を探してまいります。と道長との恋に終止符を打った。それを弟の惟規とさわが優しく迎えた。この日は干支の庚申(かのえさる)にあたり貴族たちは庚申待ちという祭事をこなう。庚申の夜に身体に潜む三尸(さんし)という虫が主人が眠っている間に身体から抜け出して主人の罪を天帝に告げ口するので、悪い虫が天に登れないように一晩中寝ないで朝を待つ。集まって遊んだり酒盛りして眠らなければよいのです。干支ですから庚申の日は60日ごとにめぐってきました。
兼家の長女超子(とうこ)の急死
天元5(982)年の正月の庚申の日。藤原兼家の東三条邸の庚申待で異変が起きました。その夜は兼家の息子たち(道隆・道兼・道長)や娘たちも歌を詠んだり碁や双六をして過ごしましたが、夜明けの鶏の鳴く頃に長女超子(とおこ)が急死してしまったのです。脇息にもたれながら冷たくなっていたのです。すぐに祈祷を行いましたがそのままなくなりました。兼家は悲嘆にくれてその後兼家一門は庚申待をやめました。超子は三条天皇の母。詮子の姉です。
ドラマでは倫子や明子やまひろたちの庚申待ちの様子は描かれましたが、兼家のところでは道長一人が文を認めている場面でした。これも時代考証の結果なのでしょうか。
『源氏物語』のエッセンスを紹介する「かくれ源氏」のコーナー
①百舌彦がまひろに届けた道長の文を弟の惟規が奪い取った場面。これは『源氏物語』で妻の中宮に届いた文を匂宮が見た場面と重なります。「こういう日常の何気ない「あるある」の場面を取り入れるところが、源氏ファンにはグッときますね」だそうです。なるほど!
②まひろとの恋に決着をつけた道長が目の色を変えて勉学や政務に励み始めるようになった場面。以下終わりまで、この場面で道長が稽古していた安積山の歌の解説です。
書の名人藤原行成に教わって仮名の稽古に励んでします。道長のクセ字は有名。文を見たさわから「優しい文字」と褒められるほど上達しています。「きっと行成の教え方上手だったのでしょう!」(白駒さんは行成推し、清少納言推しです!)この場面で道長が稽古していた歌が「安積山」です。
安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅くは人を 思ふものかは (浅香山の姿まで映る山の湧水が浅いように私も夫も相手のことを浅く思ったりしているのだろうか。そんなことはないはずなのに・・・)
これは平安中期の歌物語『大和物語』に収録されている歌です。女を見初めた男が女を連れて遠い山の奥で暮らし始める。・・・いろいろあって・・女は自殺し悲しんだ男も後を追うという悲しいお話。女がなくなる前に書き残した歌だそうです。これは道長がまひろに「遠くへ行こう」と愛をうちあけた場面に重なる。
なぜそれを道長が練習しているかというと。
安積山の歌は百人一首大会の競技開始前に読まれる歌「難波津の咲くやこの花冬ごもりいまは春べと咲くやこの花」と並んで、習字を習う人が最初に習う歌だと『古今和歌集』仮名序に書いてあります。
行成がこれを手本にしたのは道長を初心者扱いしているからなのか?いや、それはこの歌がかくれ源氏だからじゃないかな?『源氏物語』第五帖「若紫」にこの歌がモチーフになるエピソードがあるから。
光源氏は北山で藤壺とそっくりな少女(若紫)を見初めて養育していた祖母の尼君に「世話をしたい」と申し出る。あきれた尼は「姫君は難波津の歌さえ書けません そんな幼い娘にダメですよ」と断りの歌をよこす。光源氏の返歌が
あさか山 浅くも人を 思はぬに など山の井の かけ離るらむ(浅い気持ちで思っているのではありません。それなのになぜ離れてしまうのですか)
尼君の返しも見事です。
くみそめて くやしと聞きし 山の井の 浅きながらや 影をみるべき(うっかり汲んでしまって後悔したと古歌に読まれた山の井のように、浅い心のままでどうして姫君のお姿を見ることができるでしょうか。いいえ あなたには差し上げられません)
尼君が引用した(くやしと聞きし)のは、円融天皇の御代に編纂された『古今和歌六帖』の次の歌でした。
くやしくぞ 汲み染めてける 浅ければ 袖のみ濡るる 山の井の水
光源氏も尼君もこうした古歌を共有しているという信頼の上に歌で思いを伝えあっています。これが平安貴族の教養。
「傷ついたまひろの気持ちを思いうと切なさが溢れてきますが『源氏物語』とドラマを行き来することで、日本人としての感性が磨かれ、教養が深くなることに無上の喜びを感じます。これからもドラマにかくれた源氏物語に光をあてながら その世界観を少しでもお伝え出来ればうれしいです。」
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