一神教の呪いはどうもうまくまとまらなかったのでもう一度仕切り直しをしたいと思います。
圭室文雄『神仏分離』井上章一『キリスト教と日本人』安丸良夫『神々の明治維新』山折哲雄『神と仏』五来重『山の宗教(修験道案内)』などを再読の拾い読みをしています。
井上章一『伊勢神宮と日本美』を読んで感心したことがある。これは建築学を中心に伊勢神宮を考える本ですが、叙述の大半はたいへんわかりやすい学説史の解説で、自説は遠慮がちに差し出しておくという本でした。
こういうのは初めて読んだ気がしてちょっと感動でした。
建築学から見た伊勢神宮の認識の見取り図みたいなのが頭に入ってきて、現在地の問題も見えてくるのです。
素晴らしいと思いました。
それについて考えた人たちがいて、そのことに取りつかれた人たちがどういうことを考えてきたのか。その歴史がわかると、今自分たちが何を考えているのかが分かる。アイデアと思考の地図ができるからです。
なぜ日本の出版文化にこういう学説史がないのだろう。あればいいのになあと思いました。
まあ僕が知らないだけかもしれません。
研究者が自説を述べる場合は、必ずそれについてのおおまかなものでいいから学説史をつけるようにすれば、ずいぶん思考が節約されるような気がします。そうなってほしいなと思いました。
今日は吉野裕子『隠された神々』を読んだ。伊勢神宮祭儀や大嘗祭儀礼について陰陽五行思想の習合があったことを(たぶん)初めて発見した本です。天照大神と中国の宇宙神「太一」の習合です。文庫版あとがきで、いまは白鳳期(天武)の陰陽五行の盛行は当たり前のように言われるが吉野のプライオリティが無視されていると不満を書いている。
日本の学問の中に、学説史が軽んじられている証左ではないかと思われました。当時の学問で女性が軽んじられていたということもあるかもしれないが。
コメント