秀吉の政策を超えてキリスト教の信仰そのものを禁じたのは家康からです(徹底するのは鎖国令の完成を待つ)。
つまり、日本が特定の宗教を禁止して排除したのは家康・秀忠の禁教令からです。
前に述べた「一神教の論理による排除」ですね。日本人はこのときから「危ない神は排除してよい」あるいは「世界には排除すべき神もいるのだ」と考えるようになったと思われます。
繰り返しますが、秀吉までは聖徳太子以来の共存の思想でした。
仏教を入れ、陰陽五行を入れ、儒教を入れ、ヒンズー教を入れ、最後にキリスト教とも共存しようとしましたが、キリスト教だけは「オレだけが正しい。他は全部排除だ!」と言い続けたので、日本側も「だったら、オレは神仏でいくぜ。キリストこそ排除だ」とするほかありませんでした。
家康の禁教令のポイントはこんな感じです(原文は漢文です)。
「・・・ここにキリシタンの一団がたまたま日本にやったて来た。彼らは、ただ、商船を遣わして貿易するだけでなく、勝手に邪悪な教え(キリスト教)を布教して神仏を否定し、日本の政治を犯し、自分の領土としてしまおうと望んでいる。これは明らかに大きな災難の前兆である。禁止をしないわけにはいかない。日本は神の国・仏の国であり、これらを敬っている。」
家康が「共存」から「排除」に跳んだのは、上に書いた論理から合理的に判断すればほかに選択肢はないのです。これが一番の理由だと考えられます。
ただ、もう一つ家康はプロテスタント側からの情報を得たという条件が大きかったかもしれません。
1600年の関ヶ原の半年前に、豊後国臼杵にオランダ船リーフデ号が漂着して、この乗組員を引見したのが豊臣政権の五奉行筆頭だった家康でした。ウイリアム・アダムス(英人)やヤン・ヨーステン(蘭人)など数名です。
カトリック勢力はこの情報を重視して、早い時期から家康に「危険なオランダ船の乗組員の処刑」を要求しました。執拗に処刑を要求し続けました。家康はとにかく話を聞こうとなったので、彼らは「カトリックとプロテスタントの対立」から航海の目的まで率直に話し、武器などの積み荷はすべて引き渡しました。家康はたいへん好感を持って接して、家臣として召し抱えたのはよく知られるところです(三浦按針)。のちの三十年戦争に至る抗争が日本で始まっていたわけです。
つまり、家康は日本のリーダーの一人として、カトリックとプロテスタントの違いや、お互いにどう見ているかなどを初めて理解したのではないかと思われます。あの恐怖の三十年戦争は家康の禁教令の数年後に始まりました。
互いに敵の信者を悪魔とみなし、女・子供・赤子を含むすべての村人全員を言葉にできないような残虐さで殺しまくったのはよく知られています。邪教を信じる者は悪魔であり、なるべく残虐に殺すことが正しいとされました。30年続いた戦争はドイツ・スウェーデン・フランスとヨーロッパ全土が舞台でした。まさに狂気の戦争でした。ヨーロッパはこの狂気に気づいて「国際法」という思想に到達し、カトリックとプロテスト間は次第に寛容になっていきました。が、世界中の異教に対しては同じ見方が続きました。異教徒を人間とはみなさず、排除する思想は20世紀まで残ります。こうして新大陸も南洋もすべてキリスト教が支配し、ネイティヴの古来の信仰は排除され、わずかにキリスト教に習合されていきました。
ちょっと横道にそれましたが、家康や江戸幕府のリーダーたちは同じ神を信じているキリスト教が、考え方が違うだけでそこまで対立し、殺しまくり、殺しつくすという「特異な考え方」に戦慄したことでしょう。これは絶対に日本に入れてはならぬと考えたと思われます。
しかし、キリスト教(一神教)と遭遇することによって、排除すべき宗教のあることを知り、共存できないケースがあることを、日本人は初めて知りました。日本の「共存と習合があたりまえの宗教観」が終わり、「基本は共存だが、場合によっては断固として排除する宗教観」に変容しました。一神教の呪いの始まりです。
その結果、二百数十年の幸福な平和と、豊かな自給経済と、自発的で徹底的な軍縮時代が始まりました。
17世紀の前半の東南アジアには日本のもうひとつの可能性があったという説もあります。
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