小学校や中学校の歴史教科書に長崎二十六聖人磔刑の図が出てくるので、豊臣秀吉はキリスト教を弾圧したと思っている教師が多い。しかし秀吉はキリスト教を禁教としたことはなく宣教師(バテレン)の布教を禁じただけだったことは前回書いた。
『天正十五年六月十八日付覚』の冒頭にこう書いている。
「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事」
すなわち「キリスト教を信じるのは個人の心しだいである」ということで、これは新教の自由宣言ともいうべきものでした。
しかし、実際の『伴天連追放令』はこうなった。
- 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。
- 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。
- 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
- 日本は神国だから、キリスト教の国から邪法をさずけることは、すべきではないことである。
- (大名が)その土地の人間を信者にし、寺社を壊させるなど前代未聞だ。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは当座のことである。天下からの法律を守べきなのにそれをしないのはよくない。
- キリスト教宣教師は人々の自由意志で信者にしていると思っていたが、前に書いたとおり日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。云々。
教育内容として最も重要なのは、秀吉が、キリスト教宣教師が排他的に神仏の打倒を進めていたにもかかわらず、あくまで個人の信教の自由を守ろうとしたことなのです。そしてそれを実行しました。
上の二十六聖人磔刑は秀吉の政策の例外です。
1959年のサン・フェリペ号事件でスペイン・ポルトガルの世界征服の手段としてキリスト教が機能していることを確信した秀吉は、伴天連追放令後も守らずに公然と布教を続けたフランシスコ会を中心に「罰を与えた」のでした。しかしその後も彼らは法を守らず布教を続けましたので島原の乱のころまでにキリシタンは倍増することになりました。
ここで歴史教育の在り方について考えておきます。
小中学校の教科書は「秀吉がキリスト教を弾圧した」と教え、子供たちは秀吉を人として正しくない、偏狭で、残虐な人物のように理解します。これは公教育としてあってはならない間違いなのです。
ひとつは、自我形成期の子供たちが自分の先祖や祖国の先人にがっかりするような教育をする間違いです。
もうひとつは、教育内容自体のまちがい(ウソ)です。
間違いを箇条書きしておきます。
・秀吉は世界史上初めて、個人の信教の自由を宣言した偉人である。
・始めに一神教の論理で神仏を弾圧し、神社仏閣を破壊し、領民にキリシタンになることを強制したのはキリスト教の側でした。
・秀吉は、それにもかかわらず、信教の自由を認め(ただし大名は届け出制)、今後の布教だけを禁じました。
二十六聖人磔刑は、スペイン・ポルトガルの世界征服政策(そのためのキリスト教の役割)に対する安全保障的な例外政策だったということです。限りある時間数で何を取り上げるかは大変重要です。本筋は何かを見極め優先順位を考えるべきでしょう。
ぼくが『学校で学びたい歴史』を出した2003年頃は、こういう視点の授業どころか、研究も一般書籍もありませんでした。ぼくの授業とこの本がたぶん16世紀の日本のキリシタン問題を書いた草分けの一つだともいます。だれも褒めてくれないので自分で書いておきます(笑)。
ところがあれから20年たったいまネットでは特にこの見方は当たり前になりまた。ここ数年で、立て続けに良書も出版されましたので紹介しておきます。今後の授業づくりには必読の三冊です。
渡辺京二『バテレンの世紀』(新潮社2017)
三浦小太郎『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版2019)
しばやん『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』(文芸社2019)
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