新潟でエネルギーを使い切ってしまったみたいでずっと生産性の低い日が続いてました。
今日から霜月11月。葉っぱが色づいてきました。
2003年の『学校でまなびたい歴史』で発表した「西洋とどうつきあうか」(カトリック篇)はキリシタン弾圧を日本の安全保障の問題として教材化したものでたぶん本邦初だったのですが、この授業はカリキュラム上は聖徳太子の授業「仏教伝来」の続編という意味がありました。
仏教も神道もいい神様は両方大事に祀ろうという思想は日本古来の伝統のように言われるが、実は聖徳太子の決断がなければどうなっていたかわからないと考えています。その後神仏習合でやって来た日本にカトリックがやってます。二つ目の外来宗教です。信長も秀吉も太子の宗教政策を踏襲しますが、古代とはまったく異質な現象が現れてぶったまげたのは秀吉でした。
秀吉は確認しようとして信教の自由政策を明確に打ち出しますが、宣教師コエリョやキリシタン大名高山右近は断固反対の構えだったからです。
「神」以外に正しい神はなくほかの神仏は邪教であり、悪魔は滅ぼすしかないと。高山右近の高槻では神社仏閣はすべて破壊され僧侶神主は追放され領民はすべてキリシタンへの改宗を強制されました。
秀吉は布教を禁じましたが信仰は個人の自由でしたのでキリシタンは増え続けて三代将軍家光まで行きます。オランダの提案や島原の乱といった新状況を踏まえ、幕閣の一員になって「キリスト教をどうするか」の政策考えるのが授業の問題でした。6年生の多数派は江戸幕府と同じ「禁教しかないでしょう!」といいます。
授業では必ず反対派がいます。キリシタンの信仰を許そうという立場です。何回も授業しました、この信仰の自由派が教材化した時の私の予想よりも多く、けっこう頑固なのが面白い傾向でした。信仰の自由を守りたい子供たちです。スペイン・ポルトガルの安全保障上の危険性に対する理解浅いせいか?と考えてその情報を丁寧に補ってみますが、結果は変わりませんでした。その点はわかって
た上です。それからずっとどうもうまく解釈できないままでした。
今朝歩いていてなんとこのことがいきなり浮かび、その連想が明治の宗教政策につながったので驚きました。そうか。これはあの時の一神教の呪いなのかもしれないと。
カトリックの信仰を「禁ずる」ことはある意味で一神教の軍門に下ることだったではないでしょうか。秀吉も家康もキリシタンは「邪教である」と攻撃しました。別の信仰を邪教として禁じる思想はまさにコエリョや高山右近のコピーだったです。それまでの日本にはない一神教という異質と遭遇した日本は、カトリック拒否するとによって一神教の思想を受容したと言えるのです。
キリシタン禁教政策の実行部隊は檀家制度に乗った仏教でした。そのために寺院と僧侶の堕落始まり、一方で国学と水戸学が廃仏思想を研いでいきました。廃仏毀釈は明治日本の大汚点ですが、存在するものは合理的です。が、その思想的な系譜を辿ってもどうしても腑に落ちないものが残ります。その淵源を16世紀の一神教との遭遇に見ておくのは案外重要かもしれません。これから考えます。
こんな説は読んだことがありませんが、今日は一日中本棚の関連書をひっくり返していたら、明治4年の三河国大浜騒動の記事に面白い言葉見つけました。これは政府の廃仏政策と民間の廃仏毀釈に抵抗して一万人の浄土真宗信徒が起こした暴動です。
この時僧侶と村役人の談判が決裂して村岡薫という役人が竹槍で惨殺されたのですが、この時暴徒が「ヤソを倒したぞ!」と叫んでいます。明治4年に浄土真宗信徒は決起のために「ヤソ撲滅」を掲げていたそうです。どういう経緯の精神講造だったのか興味深い話ですね。(圭室文雄『神仏分離』教育社)
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