これまでのことなど 3 ( 6月1日 )
1995年(平成7年)に自由主義史観研究会が立ち上がったがすぐに歴史の授業づくりとはならなかった。従軍慰安婦が中学校の教科書に載ることへの批判活動は、そのまま1996年(平成8年)の「新しい歴史教科書をつくる会」設立まで一気に突き進んだからだ。
従軍慰安婦を教科書に載せるな!宣言で教師会員は半数に減ったが、藤岡さんのこの判断は正しかったと思う。小林よしのりのマンガの影響力もあって若い人にも大きな問題として認識されるようになり、ついには朝日新聞の「誤報謝罪」という決定的なゴールを迎える。それまで負け続けていた保守論壇を活性化し、朝日新聞が謝罪するまでに至る激流の始まりは、まさに自由主義史観研究会の1995夏の宣言だったからだ。
西尾さんが代表、藤岡さんが副代表となって、文科省の教科書検定に挑戦することになった。小林よしのりさんや古代史の授業づくりでお世話になることになる高森明勅さんも加わりとても大きな動きになっていった。
自由主義史観研究会からは上原卓先生がつくる会の事務局に入った。われわれ教師グループはつくる会の「一般会員」になっただけで直接は関わらないことにした。それからは、藤岡さん、上原さんは中学校の歴史教科書づくりへ、われわれは新しい歴史授業づくりへと主な守備範囲を持って進んで行った。
産経新聞や明治図書の支持もあって運動が広がるにつれて、それ以外のメディアの攻撃が凄まじいものになり、一体と見られていた自由主義史観研究会にも聞くに堪えない悪罵が投げかけられるようになった。
矢面に立ったのはいつも藤岡さんだったが、ぼくたち現場教師も「埼玉に軍国主義者の教師がいる・・・」などとひどい論説を書かれた。
季刊『近現代史の授業改革』創刊号に書いた巻頭言から引用されたのだが、3つの別の文章から一文ずつ抜き出してつなげてしまうというデタラメぶりで、朝日新聞なりの「恐ろしい教師」のイメージをつくっていた。
その後朝日新聞を名乗る佐藤という記者から数度取材申し込みがあったがすべて断った。「なぜあんなウソを書くのか?」と問うと「メディアには国民の考えが誤った方向に行かないのように導いていく義務がある。正しいことをしている」と言っていた。それは影響工作であってメディアのやることではない。やれやれ。
つくる会は見事に組織化され賛同者・執筆者も大物をそろえ苦心の末に教科書を完成させ、文部省の検定も通り、採択もかなりの範囲になる可能性があったが、左翼やメディアによるテロも含む一斉攻撃でつぶされていった。
栃木県のある市の教育委員たちがテロや実力行使による攻撃に耐えられずに採択を撤回してしまったのが大きかったと思う。左翼の不法な実力行使をメディアは取り上げなかった。
その後、10年改訂のたびにつくる会の教科書は採択戦に挑み、信念ある私立中学や石原慎太郎知事の都立中学や山田宏区長の杉並区が勇気をもって採択してくれたのがたいへん嬉しかったのを覚えている。
みんなすぐ忘れてしまうが、日本を覆っている「平和主義」「自虐史観」の空気と大多数のメディアのプロパガンダに包囲されながらも、孤立無援の中で勇気ある決断をしてくれた諸氏の功績を忘れてはならないと思う。ただ組長が変わればまたもとのもくあみに戻っていった。
つくる会をめぐる裏話いろいろも今となっては面白いけれど、前回自分の記憶がいかにいい加減か分かったのでここには書かないことにします。 (つづく)
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