昨日は第5回目の歴史授業講座でした。
会場が参加者子供たちスタッフで満員状態。意見もいろいろ盛り上がって熱い会になりました。
今年から教師になった山口君が、あのとき3組だった岡君を連れてきてくれて、二人とも熱心に発言してくれて、なんだか昔を思い出しました。
懇親会も大勢集まっていただき盛り上がったのですが、ちょっと疲れがあんまりひどくて朦朧としてきたので、お先に失礼でごめんなさいでした。
思い付きですが、初の試み。
思い出すまま、昨日の講座の流れを書いてみますね。
(1 はじめに)
・徳川の平和260年が世界史上例外な長期大軍縮時代だったことを復習します。超軍大国が260年かけて軍事小国に転落しました。
(2 ハリスが来るまでの解説)
・江戸時代のころの西洋をつかみます。
(ハード)産業革命と工業化・軍事技術の革新・植民地勢力の転換(スペイン・ポルトガルから蘭英仏露米へ、略奪から経営へ)
(ソフト面)人権思想。総ての人は平等だが、有色人種と異教徒は人ではないので人権はありません。
こうしてハードとソフトともに圧倒的なパワーを持った欧米諸国が、人種差別を原理原則とする国際秩序を確立し、最後に日本に押し寄せてきました。
どうする日本!
日本がどうなるか?という歴史の観察ではなく、君が誇りある日本の武士だったらどうするか?!という歴史学習をやります。
・アヘン戦争・・・イギリスのえげつない貿易と戦争は明日の日本だとわかる。
・ペリー来航・・・阿部正弘は粘り腰で和親条約を結ぶが、これはまだ開国ではない。
(3 授業「日米修好通商条約」)
・井伊直弼のリーダーシップで通商条約を締結。開港地に5か国の外人居留地ができ、自由貿易が始まる。
井伊は言う。「英仏露が来る前に若いアメリカと組んだほうが有利に決まっとる」
問題点①孝明天皇の勅許がない!
問題点②日本に関税自主権がない・相手国に領事裁判権がある
(日本と列強は不平等な関係になった)
この条約締結で一気に幕末の動乱が盛り上がっていく。
長州と脱藩浪士の攘夷派が京都に集まって反幕府活動を展開。
井伊はこれを断固として弾圧し、吉田松陰らが死刑になった。
なんと、大老井伊直弼も桜田門外で暗殺されてしまった。
【政策選択委発問】
あなたが幕末の誇りある武士だったらどっち?!
A 条約をいったん破棄して、新しい国づくりを進める
B 条約は結んだまま、新しい国づくりを進める
・会場+オンラインの意見分布はAが少数、Bが多数だった。
・結果、条約は破棄されず、日本は人種差別的な国際秩序に巻き込まれその一員となった。
この国際秩序には3つのカテゴリーがあった。独立国(英・仏・露・蘭・米など白人国)植民地(国はない奴隷化された現地人地域)半独立国(日本・清)
日本の半独立国という地位はきわめて不安定で、のし上がれなければ植民地に落ちる運命だった。
(4 長州藩の攘夷戦争の解説)
唯一の攘夷藩長州が外国船砲撃(攘夷実行)。
長州は米・蘭・英・仏の連合艦隊に報復攻撃を受けてボコボコにされた。長州藩のリーダーたちは「これまでやってきた攘夷を小攘夷と呼んで捨て、これからは大攘夷でいくことに転向した。
大攘夷とは「開国して敵に学び強い国になってから攘夷をやろう」ということで、幕府や諸藩のこれまでの開国方針と実質的に同立場になった(言葉だけ違う)。
この時点で長州藩の方針はこうなった。
①通商条約の破棄はやめて維持し、西洋文明に学んで強い国になり、西洋列強と対等な独立国になる。
②徳川幕府を倒し、天皇中心の国日本を再建する。
・ここで幕末動乱の対立軸を確認する。
・教科書でもほかの本でも幕末といえば「尊王攘夷」いってんばりなので、「尊王」と「アンチ尊王=尊将軍?」が対立しているような錯覚におちいる。それがよくわからなくなる一番の原因です。
・重要なのはこの時期、日本の武士は幕府であれ、諸藩であれ、すべて「尊王」では一致しているということです。だからこそ政局の中心は江戸ではなく京都になりました。これは薩長史観で幕府は尊王ではなかったというプロパガンダでした。
・これがわかると、次は攘夷と開国という対立軸です。しかし唯一の攘夷だった長州は下関戦争で転向し、これまでの小攘夷はやめて大攘夷でいくことにします。大攘夷は「開国して外国に学び強い国になってから攘夷をやる」ということですから、これはこれまでの幕府とまったく同じです。大攘夷=開国。
・幕府の開国ははじめからこの台攘夷なのです。ですから、はねっ帰りで知能の低いごく一部のサムライ以外は、みんな「尊王攘夷」だったととらえるべきなのです。
・最後に残った対立軸は、幕府を維持して新しい国を作るか、幕府を倒して国づくりか、でした。幕末の真の対立軸はこれだけです。この時点では明確な「討幕派」は長州だけでした。これが長州藩の存在意義です。
(5 授業「生麦事件と薩英戦争」)
・東海道の生麦で薩摩藩の大名行列がトラブルに遭った。乗馬のまま殿様の籠近くまで乗り入れたイギリスの貿易商人が切られて即死。2名は重傷で女性一人は無傷で三人とも横浜に逃げ帰った。
英・米・仏・蘭の東洋艦隊はただちに横浜に集結して江戸を火の海にするか?という会議がもたれた。
が、結局次の結論に落ち着く。
【イギリスの幕府への要求】
・幕府の正式な謝罪。
・賠償金28万両(千両箱280)の支払い
【イギリスの薩摩藩への要求】
・賠償金7万両の支払い
・犯人全員の引き渡し
・幕府は要求を受け入れ、謝罪したうえ、横浜に千両箱280箱を届けた。
【政策選択発問】
あなたは薩摩藩の大久保利通です。イギリスの要求に大したどう決断しますか。3択から選んで理由をメモしましょう。
A イギリスの要求を受け入れる
B 賠償金は支払うが、斬ったぶしたちは渡さない。
C イギリスの要求は拒否する
・意見分布はAが1名 Bが12名 Cが16名だったかな?
・小松帯刀、大久保利通らの決断はCの拒否するだった。
・資料にした大久保利通の手紙と、会場で話されたみなさんのお考えがまったく同じだったことを報告しておきます。
「日本では国法を守るのが正しい。斬った武士は忠義の武士であって犯罪人ではない。引き渡すことはありえない」
・世界の七つの海を支配する大英帝国東洋艦隊が鹿児島を攻撃した。薩英戦争。
・鹿児島の町はすべて焼かれたが、死者と負傷者はイギリス側のほうが多かった。イギリスの新聞は「大英帝国の恥」と書いた。日本との戦争じゃないよ。九州南端の地方藩と大英帝国の偉大戦争でいい勝負!ってありえないだろう。
・こうしてお互いに憎しみあっていた薩摩と長州という二大雄藩が、同じ体験をしたことで歴史が動きはじめる。これまで幕府と行動を共にしてきた薩摩はここから立ち位置を変えていった。
(6 戊辰戦争までの解説)
・それまで幕府と共に開国方針を進めてきた薩摩がいよいよ薩摩を見限る。薩長同盟
・薩摩も討幕に転換したことを見て、15代将軍徳川慶喜は「大政奉還」という大博打を打ちます。
・幕府は滅びるが、天皇の下に新政府が作られるとき、徳川慶喜は当然議長の立場です。260年の平和な統治を支えた官僚組織(人材とノウハウ)がなければ新政府は無理だろう。
・薩摩長州以外の諸藩の殿様たちもそれに大賛成でした。旧幕府と殿様たちによって新政府がつくられるところでした。
・これをつぶしたのが小御所会議のクーデターであり、王政復古の詔でした。
・西郷・大久保は江戸で火付け・強盗などのテロ行為を組織して幕府側をとことん挑発して、鳥羽伏見・戊辰戦争に誘導しました。こうして幕府なきあとも大領地を維持していた徳川家から、領地と官位を根こそぎ取りあげてしまったのです。
・この戦争は江戸で最後の決戦を迎えるところでしたが、勝海舟の働きで、100万都市の炎上は回避されました。もちろん西郷も立役者です。ポイントは勝海舟がフランスの軍事援助を断って慶喜に引退を受け入れさせたこと。西郷もイギリスの援助は断り慶喜の首を保証しました。
両軍のトップ二人が、内戦が長引いて国が奪われるのを避けるという目的で一致したのです。
・明治維新が素早く最小の犠牲で成功したのは、2000年の天皇中心の国という日本最強のソフトウエアでした。薩長下級武士の新政府が、ただちに権威ある日本の統一政府になれたのは、明治天皇がこの新政府を信任したからです。日本はペリー来航から15年で幕府を終わらせ新政府はすぐに日本をまとめ上げましたが、チャイナ清朝はアヘン戦争から72年も生き延びて滅び、後を継いだ中華民国政府はまったく信任を得られず、チャイナはその後何十年も分裂したままでしたね。
(7 授業「廃藩置県と武士の失業」)
・戊辰戦争が終わって1年以上たっても、新政府は政策を一つも実行できません。それはなぜか?政府の金庫が空っぽだからです。国民の税は各藩が徴収しすべて藩主と武士の給与になります。これでは目標「強い独立国」と政策「近代化・近代軍など」があっても何も始められない理由でした。
・そこに廃藩置県というはじめの一歩政策が出されます。
【政策選択発問】
・あなたは新政府のリーダーです。廃藩置県に賛成ですか?反対ですか?
【参政側の意見】
①全国260の藩による超地方分権のままでは近代国家を建設できない。
②藩が集めた税はみな武士の給料になっていてやるべき政策が実行できない
③新しい国づくりをすすめるために廃藩置県を実行して、中央政府に税が集まる仕組みをつくろう
【反対側の意見】
①廃藩置県といわれたらわからないが、これは全国の武士をリストラする恐ろしい政策だ。
②明治維新は武士の血と汗の結晶だ。終わった途端武士の身分を廃止するなんてひどい。
③戦争の専門家がいなくなったらこれから日本はどうなるんだ?
④いまこれをやれば全国で反乱がおきるだろう。内乱は何年も続き日本は滅びてしまうだろう。
・講座では賛成派が多数意見でした。反対派も三分の一くらい。「武士道」の消滅を惜しむ声など、折衷案も出されました。そういえば英国は貴族という特権階級をのこしたたま近代化した国でしたね。
・木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の維新の三傑が断固として廃藩置県を実行しました。西郷は反乱に備えて、薩長土の兵を集めて御親兵を組織しました。
・「廃藩置県の詔」が出され、全国で粛々と廃藩置県がじっこうされ、鎌倉時代以来続いた「封建制度」が消滅しました。明治4年1871年の夏です。
・イギリス公使アダムスは言います。
「わがヨーロッパでこんな革命(支配階級の廃止)を実行するとしたら、何年も戦争をして勝たなければ成功できないだろう。日本はどうしてなのか?」
・日本人ならこの問いに答えられなければいけません。それが歴史教育の目標だからです。
・福井藩のお雇い英語教師グリフィスは言います。
「日本は一滴の血も流さずに大改革をなしとげました。それは日本の武士が国のためになら自分を犠牲にしてもいいという立派な考えを実行したからです。ヨーロッパでも中国でもこんなことは絶対にありません。日本人が誇るべきことです」
・何百年続いた特権階級が国のために自らの統治者の誇りと特権を放棄しました。こんな支配階級は日本以外にはいないのです!
これまでの歴史教育がこういう日本の事実に基づいた誇りを教えたことがありましたか?ありませんね。
明治維新を学ぶという事は、我が国の天皇の意義を学ぶことであり、武士の精神性を学ぶことなのです。これが第5回講座のあらましでした。
ちょちょっと終わるつもりがこんな大論文(笑)になっちゃいました。今日は疲れをいやすつもりがとんだ働き者になってしまいました。熱でなきゃいいがなあ。
ブログに載せるので、そちらでゆっくり読んでください。今夜もありがとうございました。
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