今朝はこんな空でした。
いつも遅刻しそうだというように、走ってくる少年にたまに会う。
夏になる前くらいからこの少年がぼくにだけ「おはようございます」と挨拶するようになった。いい表情で。
ぼくも返すが、こちらにはちょっと複雑なものがある。
彼は大第三公園の南に隣接する朝鮮学校の生徒です。毎朝毎夕金正恩の御真影に敬礼している少年です。全国にある朝鮮学校は拉致にも関与していたとぼくは見ています。
少年の挨拶は良い行いですが、ほかにも人がいるのになぜぼくにだけ挨拶するのか。ぼくが挨拶を返したからなのか。謎です。
教師になったころアランをよく読んだ。何かを手に入れるためというよりも、そこに行くといい音楽が流れていて、座り心地のいい、安心という椅子に座れるからです。
昔読んだ『精神と情熱に関する十二章』(小林秀雄訳)が気に入っていて、そうだ教育ならこの人がいたっけ!という感じで白水社から出ていた全集を買った。これは断捨離後のいまもまだある。
アランはリセ(高校?)の哲学の先生でした。プロポというコラムのような短い文章で考えた人です。飛躍が多い文体でわからんところも多いのですが、いったん好きになればこっちのものです。というか文章でも絵でも人でも好きにならないとその人はわかりません。
馬を水場に連れて行くことはできるが
水を飲ませることはできない
一つのアフォリズムに教育のすべてに通ずる原理があります。ここを踏まえなければ教育は成立しない。そのための人間観も教育観も、幸せとはどういうことかも。
ぼくの歴史授業にはアランに学んだことがベースにあるような気がします。わからんけど。それはたぶん常識とかコモンセンスみたいなものかなと思います。
アランとかエリック・ホッファーとかモンテーニュもそうですが、椅子一つあればそこに思索があるというスタイルですね。
現実から遊離せず、思考がちゃんとこの世にあるモノを触っているという安心があります。体系や学問のような建築にはいかない。だからこそ大事なモノを捕まえてくれているのだと思います。
私は意見を述べる。
それがいい意見だからではなく
私が意見だからだ
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