今朝の第三公園はうんざり。ぴちぴちのパンツ一丁でムキムキマッチョのオヤジランナーと一緒になってしまいこちらが3周歩く間に数回追い抜かれた。どうしてお前は裸で走るのか?謎である。
ぼくの歴史授業についてあんまり言われないことがある。今朝はそのことを考えながら歩いた。
それは昨日投稿した上越の渡辺希さんのチラシに、しっかりこう書いてあったからです。
「高い再現性で授業実践が可能」
・・・資料を読み解く歴史的思考と討論する力をはぐくむ授業は、誰にでも追試が可能で、明日の授業からすぐに実践できます。
——————————
そうです。「日本が好きになる!歴史授業」はこの通り「再現可能性」がきわめて高いのです。
今日は、この授業の再現可能性ということについて少し書いてみますね。
ひとつは「誰にでも追試できる」ということです。ほぼ同じ授業を誰にでも再現できるということです。
いまからウン十年前に、板倉清宣さん仮設実験授業(これは50年前)や向山洋一さんの教育技術の法則化運動(これは40年前)が出てくるまでは、我が国の教育界にこういう考え方はありませんでした。
いい授業をやれる先生がいて、そういう先生は名人であり大先生であって、その他大勢の教師たちは崇拝するだけでした。どうすればそういう授業ができるのか?それはなあ修行が足りないからだよ!10年修行してダメな先生には。それはなあ人間の器が違うからなんだよ!ハッハー。
それとよく言われたのは、授業というのはなあ。いつ、どこで、誰が、どんな子供に・・・やるかによって全部違うんだよ。違う子供に同じ授業をやってはダメなんだ。授業は生き物だから、教師はみんな自分の授業をつくるしかないんだよ。頑張れ!
板倉さんは「授業書」というかたちで、まったく同じ授業を再現可能にしました。
向山さんは授業記録を再現可能な形で書く文体の研究をやり提案し続けました。授業書ほど完ぺきではないが、8割くらいの再現可能性があればいいんじゃない?という感じで再現可能な授業記録御文体を開発し、全国の若い先生方が後に続きました。
発問を授業で話した言葉で書く、発問を罫線で囲むなど画期的発明がいくつもあり、こうしていい授業が誰にでも再現できる授業プラン(マニュアル)になる道が開けました。
ぼくの歴史授業はこのお二人の偉大な先人の精神と実践に学んだものにすぎません。
なぜこの考え方を支持したか。それはぼくが中年になって初めて教壇に立ったシロウト教師だったからです。
通信教育で免状をもらいましたが、2年間の勉強には実践的な知識や教育技術、何よりも授業論がすっぽり抜け落ちていました。これは今でも変わらないと思います。
教員養成課程の大学の先生には難しすぎるからです。彼らは外国の教育学から学ぶのは得意ですが、教師や子供の事実と願いから学ぶのはたいへん苦手です。
シロウト教師が教室に立って、40人の子供たちに授業をします。国語・算数・理科・社会・図工・音楽・体育・総合・英語・道徳・特別活動・・・。実践的な授業のマニュアルが皆無です。教師用指導書はありますがそれは授業にはなりません。
「教えたいことをそのまま子供に話せば、子供の頭に教えたいことが移るのよ」「話合わせれば子供は話し合うのよ」「・・・しなさいと言えば、子供はそうするのよ」「授業は終われば子供はわかるのよ」等々といった、奇々怪々な経験論で指導書が書かれているからです。
明治以来100年以上の蓄積があるはずなのに、簡単に使えて、5割か6割の目標が達成できるマニュアルがない!人を育てる組織のこの異常な事態に、まあデモしか教師レベルのぼくは驚いたわけです。ぼくはもういろんな吹き溜まりを生き抜いてきていたので、手抜きをしながらいかに重要なところで効率を上げるか?という適当教育論で乗り切りましたが。
それで各教科の専門家が1年間の全授業のマニュアルをつくれば、もっと楽になるのになあ。ぼくも一つの教科くらいはそれをつくろう。という気持ちになったのは教師になって1年目が終わったころでした。そんな簡単ではありませんでしたが、歴史についてだけは人生の目標がかなったわけです。
だから、ぼくの歴史授業は社会科専門の先生方のためにつくったわけではありません。彼らは専門家のプライドがあるのでどこの馬の骨かわからん奴の授業なんか使いません。それでいいのです。彼らはぼくとは違う「全授業」をつくればいいからです。
社会科なんか知らねえよ。よくわからないわ。好きな教科じゃねえし。というふつうの先生のために「日本が好きになる!歴史授業」をつくったのです。とにかく全教科一定のレベルで教えることなんか出来っこないんだから、歴史はこれで手抜きをしてください。ということです。ぼくは何が何でも人まねは嫌じゃ!と言いながら残業する気持ちがわかりません。人まね授業でもまあまあの結果が出せればそれでいいんじゃないかな?
全教科でそういうマニュアルがそろえばいいなと思っています。
ただマインドセットが変わっても、「一定のレベルで再現可能な各教科の授業」ができないことには話が始まりませんけれど。でも法則化が始まって40年。もうかなりそろっているんじゃないのかな?
話があっちこっち行きました。
話の流れは、実は「再現可能性」の二つ目のファクターに移ってきています。
それは誰にでも同じ授業ができたとして、その結果はどうなのという話です。
その授業は「誰がやっても子供たちのハートとノーミソに同様の結果を残せますか?」という「授業結果の再現可能性」です。
実はこれが最も重要であり、授業が再現できても結果が再現できなければ、追試してみようとは誰も思いません。
こちらが「再現可能な授業」の核心です。
これについての一般理論は今のところまだありませんが、「日本が好きになる!歴史授業」については、結果の再現可能性が相当程度高いことがこの10年間でわかってきました。
歴史が好き!日本が好き!国を愛する心情、国民としての自覚など教育基本法や学習指導要領がうたう根本目標は、ほぼ誰でも達成できることがわかってきたからです。
今後は、追試してくださった全国の先生方のレポートや子供たちの感想文をさらに積み上げていきたいと考えています。
コメント