自由主義史観研究会は明治図書の雑誌『社会科教育』が窓口になった。編集長の樋口さんが歴史教育の改革に乗り気で、藤岡先生の問題提起論文を社会科教育に2年ほど連載したこともあった。
写真は1995年(平成7年)の9月に明治図書から創刊した機関紙。はじめは月間だったがのちに季刊にして14号まで出た。研究会は機関誌の書き手を組織するという意味合いもあった。
こういうヒト・モノ・コトに関する基本的な「設計」はすべて藤岡先生がいつの間にかやっていて「そのとき」にはもうエンジンに火を入れるだけになっていたように思う。
これから書いていく「これまでのこと」の新しい歴史教育運動に関するすべては、いちいちことわることはしないけれど、すべて藤岡さんが一人で理念的な設計をし、人を選び、人を動かし、組織をつくり、駆動していった結果だったと知ってほしい。藤岡先生が歴史教育運動に火をつけてから、それまでメディアや論壇で全戦全敗状態だった保守的な論壇の流れが大きく変わり始め、具体的な成果を上げるようになっていったとと思う。
自由主義史観研究会を立ち上げたのは1995年(平成7年)1月で、その年の8月に蔵王温泉で創立集会・研究合宿を開催した。全国から100人以上の教師が会員になった。
藤岡さんは蔵王で「従軍慰安婦を教科書に載せるな!」という宣言文を採択する方針で、教師たちの多くは反対だったが藤岡さんは絶対に譲らなかった。翌年からすべての中学校教科書に「従軍慰安婦強制連行」が掲載された教科書が文科省の検定を通っていたからだった。この宣言が翌年の「新しい歴史教科書をつくる会」の結成(西尾幹二代表・藤岡副代表)につながり、従軍慰安婦問題の大きなうねりを作り出した。
しかし教育研究団体としては、その反動が大きかった。100人も集まった教師たちはこの宣言がきっかけになってほとんど会を脱退した。「政治運動をやりに来たんじゃないよ」と。安達・佐藤・私は「いや授業研究はこれからもやっていきます」と説得したがダメだった。その後自由主義史観研究会の会員のほとんどは一般社会人になり、会員の関心の中心は「授業」から離れていった。それでも私たち教師は機関紙に授業を載せ続け、細々とだが授業研究セミナーを開催し続けていった。藤岡さんも会の主軸は授業研究と言い続けた。
そんな細々とした流れの中で横浜の中学校教師・服部剛さんが参加してくれた。彼のおかげで研究会の最重要課題だった「昭和の戦争」の授業や「戦後」の授業など近現代史が大きく補強された。どうしてこんな人材が横浜の日教組占領地で、孤立無援でがんばってこられたのか不思議だった。彼は実に頼れる中学校教師で、私の授業にも彼の授業からいただいた教材がたくさん入っている。
話が前後するが、会を結成した当時はまだ強制連行・性奴隷が世間の常識だったので、これをきっかけに囂々たる自由主義史観研究会批判が起こり、メディアによって研究会は極右翼団体にされてしまった。私達教師も朝日新聞などにあることないこと書かれることになった。私も「軍国主義教師」とか「好戦的で粗野な子供を育てている」など無茶クチャなウソも書かれた。近くにいる同僚はニンゲンを知っているから大丈夫だったが、広い教師たちの世間ではそれが通ってしまうようになった。自由主義史観研究会はアブナイ右翼の教育団体というイメージが定着していった。
その後、実践しては発表していくぼくたちの授業は全否定されるようになり、批判したらかえって広がるとなってからは、まったく黙殺される時代が続いた。以後ぼくたちは教育界には存在しないことになり、消滅したままの20年が続いた。
そういうメディア中で産経新聞と明治図書だけは「しばらくの間」私たちを応援し続け、発言の場を与え続けてくれた。彼らの名誉のために、孤立無援の中で言論の自由を守り続けた両社の栄誉を称え感謝の気持ちを伝えたい。「しばらくの間」とそれ以後についてはまた書く機会があると思う。(つづく)
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